大判例

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東京高等裁判所 昭和50年(ネ)2021号 判決

昭和五〇年(ネ)第二、〇二一号事件控訴人(第一審原告)

中野長助

外一九名

昭和五〇年(ネ)第一、六六一号事件被控訴人(第一審原告)

石井平治

外二名

右二三名訴訟代理人

松井道夫

外七三名

昭和五〇年(ネ)第一、六六一号事件控訴人、

同年第二、〇二一号事件被控訴人(第一審被告)

右代表者法務大臣

奥野誠亮

新潟県

右代表者知事

君健男

右両名指定代理人

和田衛

外七名

主文

一第一審被告らの控訴に基づき、原判決主文第一、二項を次のとおり変更する。

(一)  第一審被告らは各自、第一審原告石井平治に対し、金二五八万〇、九四四円及び内金二三五万〇、九四四円に対する昭和四二年八月三〇日から、内金二三万円に対する本判決確定の日の翌日から各支払済に至るまで年五分の割合による金員を、第一審原告今井幹雄に対し、金一四三万円及び内金一三〇万円に対する昭和四二年八月三〇日から、内金一三万円に対する本判決確定の日の翌日から各支払済に至るまで年五分の割合による金員を、第一審原告菅兵治に対し、金一一七万八、〇〇〇円及び内金一〇七万八、〇〇〇円に対する昭和四二年八月三〇日から、内金一〇万円に対する本判決確定の日の翌日から各支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

(二)  右第一審原告らのその余の請求を棄却する。

二右第一審原告ら三名を除くその余の第一審原告らの控訴をいずれも棄却する。

三訴訟費用は、第一、二審を通じて、第一審原告石井平治、同今井幹雄、同菅兵治と第一審被告らとの間においては、右第一審原告らに生じた費用を第一審被告らの連帯負担としその余の原告らと第一審被告らとの間においては、第一審被告らに生じた費用の三分の二を右第一審原告らの負担とし、その余を各自の負担とする。

四本判決第一項(一)の金員支払部分は、第一審原告石井平治において金五〇万円、同今井幹雄において金三〇万円、同菅兵治において金二五万円の各担保を供するときは、仮に執行することができる。

事実

第一  申立

一  第一審原告ら訴訟代理人は、「原判決中、第一審原告石井、同今井、同菅ら三名を除くその余の第一審原告らに関する部分を取消す。第一審被告らは各自、第一審原告中野長助に対し金六三九万五、一一二円、同阿部豊治に対し金五三一万二、四四八円、同遠藤幸四郎に対し金二九三万一、四三〇円、同古嶋岩吉に対し、金四〇九万三、〇一六円、同笹川幸、同笹川康雄、同笹川勇、同笹川幸男、同笹川美也子、同小池幸子の六名に対し、一括して金一五五万八、三三〇円、同吉田弘に対し金一二一万一、三六〇円、同山田薫に対し金一六三万九、四二四円、同池田一に対し金二一二万五、三一二円、同吉田徳広に対し金一八二万二、〇三二円、同湯浅豊治に対し金一五六万二、〇六〇円、同湯浅平吉に対し金一六六万五、〇四〇円、同大島平勝に対し金一〇八万一、九〇四円、同笠井順次に対し金一〇五万八、四八〇円、同堀武に対し金六二万八、〇八〇円、同高橋精策に対し金一四九万二、五六〇円及び右各金員に対する昭和四二年八月三〇日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を付加して支払え。訴訟費用は、第一、二審を通じ第一審被告らの負担とする。」との判決及び金員支払部分につき仮執行の宣言を求め、第一審被告らの控訴につき控訴棄却の判決を求めた。

二  第一審被告ら指定代理人は、「原判決中、第一審被告ら敗訴の部分を取消す。第一審原告らの請求をいずれも棄却する。訴訟費用は第一、二審とも第一審原告らの負担とする。」との判決を求め、右第一審原告らの控訴につき「本件控訴をいずれも棄却する。控訴費用は右第一審原告らの負担とする。」との判決を求めた。

第二  主張

当事者双方の事実上の主張は、次のとおり付加、訂正するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

(原判決事実摘示の訂正)

原判決一二五頁三行目の「敷延」を「敷衍」と、同二一四頁八行目の「計算チック」を「計算チェック」と、同二一五頁八行目の「除々に」とあるのを「徐々に」と、同二三〇頁四行目の「あつては」とあるのを「あたつては」とそれぞれ改める。

(当事者の訴訟承継)

承継前の第一審原告笹川広は原審口頭弁論終結後の昭和四九年九月二九日死亡し、妻幸、子康雄、幸子、勇、幸男、美也子がそれぞれ法定相続分に従つて右広の権利義務を承継した。

(第一審原告らの補足的主張)

第一向中条、西名柄両地区仮堤防の

設置又は管理の瑕疵

向中条地区仮堤防は、昭和四二年八月二九日午前一時過それまでに繰返された河水の浸透による裏法崩れの結果、終局的な浸透破堤に至つた。西名柄地区においては、河水の浸透が進行し、裏法面が相当程度軟弱化していたが、仮堤防の切下げ部分の修復が完全にはなされていなかつたため、向中条地区より早く、二九日午前零時前から部分的な溢水がはじまり、同午前一時過ぎには対処し得ない溢流状態となり、同一時半頃完全な破堤に至つた。

一  両堤防の危険の顕著性

土砂堤防においては、河水の裏法への浸出は、通常破堤の危険を意味するものである(裏法尻に水抜き措置がある場合は別である。)。それ故、築堤に際しては、洪水時にこのような事態が発生しないように十分な配慮が必要である。したがつて、堤防が浸透破堤したということは、直ちに同堤防が堤防としての安全性を欠いていたことを意味し、国家賠償法二条にいう「営造物の設置管理の瑕疵」があつたことを意味する。また、西名柄仮堤防は法線変更という大改修工事中で左岸部堤防が概成していたとはいえ、洪水期に堤防の切下げをなし、これが完全に修復しえなかつたことによる溢水破堤であるから、これについても河川管理に瑕疵があつたことは明らかなところである。

向中条、西名柄においては、結果的に堤防が持つべき安全性を欠いていたというだけでなく、仮堤防の設置当初からこの危険性は明らかであつたのである。

向中条堤防(西名柄も同様であるが)は破堤箇所であり、かつ締切箇所に設置された堤防であり、しかも築堤材料に極めて透水性の大きい粒径のそろつた中砂(透水係数では旧堤の一〇〇倍大きい)を用い、計画対象水位以下の表法面には被覆土さえ施されていないといういわば河水の浸透に対しては丸裸同然のものであつたこと、そしてそのうえ堤防の敷巾も在来堤と同様という堤防であつたのである。

向中条においては、築堤場所、築堤材料、構造、堤防断面等堤防設置の重要な諸要素について、ほぼ最悪の条件が重ね合わされている。このような堤防では、一定の洪水継続時間があれば、浸透破堤を起して当然である。

基礎漏水と堤体の浸透が同時に進行すれば浸潤線の上昇は一層早まる。加治川においては、昭和四二年八月二八日夜半から再度の水位上昇があつたが、向中条では同月二八日午後一一時頃第一審被告らのいう計画対象水位到達前に、既に本件仮堤防の中野長助宅付近の裏法は約三分の一ないし二分の一程度が崩落によつて欠損状態となつており、堤防としての欠陥をはつきり示していたし、その効用を欠くに等しい状態にあつたのである。

向中条堤防が同月二九日午前一時頃まで持ちこたえたのは地元住民らの懸命の水防活動があつてこそなのである。

二  破堤原因についての追加的主張

右のように向中条仮堤防の破堤は河水の浸透が主要因であるが、破堤はそもそも幾重にも自然的要因の重つた自然現象であるから、仮に浸透のみによつて右の破堤が生じたものでないとしても、溢水が単一的原因であるとみることは、右破堤の経過及び同仮堤防の構造に照らして断定し得ないのであつて、右破堤時に特異な溢水があつたとしても、それは破堤の主要因である河水の浸透に競合して破堤を生じさせたものである。

三  第一審被告らの主張に対する反論

1  築堤材料の選択等について

第一審被告らは、災害対策工事である本件仮堤防について、築堤場所は選択の余地のない問題であり、築堤材料についても、緊急かつ大量に土砂を必要とするところから土取場は選択の余地が極めて少なく、かつ堤防敷巾についても民地の借用に限度がある等と抗弁し、かつ本件砂丘砂を使用して築堤した両地区の仮堤防は、全国的にみても一般的通例として施行されているところと変らず、土質工学的にみても透水係数は礫が大きく、次に砂、シルト、粘土の順に小さくなることから前記調査事例と比較して、決して劣るものではないと主張している。

築堤場所に選択の余地が少なく、また、築堤材料についても、常に最適なものが入手しうるとは限らないが、そのような場合には、その土質等に応じた堤防の断面や構造をとることが必要なのであつて、これは本件においても十分可能だつたのである。しかるに、向中条、西名柄仮堤防に用いた砂丘砂は、河水の浸透に対する安定性という点でみると、第一審被告ら主張の各事例中では、最も悪いもののうちの一つである。浸透に対する安全性は、透水性の大小と、浸透力に対する安定性(裏法面から河水が浸出しても崩落を起しにくいこと、例えば礫主体の骨組の場合は、透水性は大きいが、浸透力に対しては安定である。)でみるのであるが、本件の砂丘砂は、透水性が大きい(もとより礫よりは小さい)うえに、粒径がそろつている中砂である点で、河水が浸透しやすく、かつ浸透力に対して不安定であつて、新潟県の刈谷田川、青森県の田名部川と並んで最も劣悪なもののうちの一つである。この点に関し、三木鑑定も「この砂丘砂は、築堤材料として利用できないものではない」という極めて消極的な評価しか下していないものであり、一般的通例を大きく下廻るものである。このような砂丘砂を築堤材料として使用する場合には、河水の浸透を少なくするため表法面に被覆土工を施すとか、十分な断面をとるとか、裏法尻に水抜き措置を施すとか、これに応じた堤防断面や構造をとることが要請されるのである。しかるに、本件では、このような措置が全くとられていない(鋼矢板の打設も止水壁としての効用が期待できない。)。

第一審被告らは、両地区の河川改修はショートカットという法線変更の大改修であり、仮堤防の存置予定期間がほぼ二洪水期に及ぶのもやむを得ないことであり、全国調査事例からみても右期間は長すぎないという。たしかに、大改修の場合は一定期間が必要であろうが、その間の安全性が保障されなければならないことは当然であり、したがつて、それが浸透破堤をした向中条や切下げ堤防の修復がなされなかつた西名柄の事例について何ら抗弁とならないことはいうまでもない。

2  「いずれ破堤論」について

第一審被告らは、仮に向中条仮堤防が在来堤防と同等の強度をもつており、したがつて、溢水防止のための水防活動により一時的に溢水破堤を食い止め得たとしても、いずれ早晩溢水破堤を免れ得なかつたであろうと主張する。たしかに、吉川鑑定には八月二九日午前二時の向中条の水位は天端より上1.05メートルに達するという推定がある。しかし、これはあくまで机上の計算であるにすぎないのみでなく、右鑑定の根拠は薄弱である。また、仮にいずれ破堤したかも知れないという推定を前提にしても数十キロメートルに及ぶ加治川堤防のうち、本件の向中条や西名柄地区が常に必ず最初に溢水破堤しなければならないという自然法則や経験則は何一つない。かえつて、加治川縦断面図(乙第一号証の一〇)によれば、姫田川合流点より洗堰にいたるまでの堤防測点一六ケ所のうち、右岸ナンバー一五地点は堤防高12.92メートルであり、また、ナンバー一七地点の右岸堤は13.11メートルであるから、相対的には右両地点が一番早く溢水がはじまることになるのであつて、向中条地区の破堤は少なくともその後といつて差支えない。

したがつて、加治川全体の堤防のうち、ある特定の地点がいずれ破堤するという推定があつても、仮に他地区の破堤が先行すれば、破堤を免れ得る可能性も生じ、あるいは仮に向中条地区破堤が二番目にくるか、あるいはその後に来るかによつては、破堤後の第一審原告らの損害にも相当な影響を及ぼすことを考えなければならない。とくに、第一審原告らのうち向中条地区堤防直下に居住していたのは、中野・阿部・遠藤の三名であるが、右岸の他地区破堤が先行していれば、少なくとも家屋の流失は免れ得たであろうし、その被害も著しく軽減されたであろう。

このように、第一審原告らが主張している事実はあくまで特定地点の破堤による特定の損害であるから、いずれどこかが破堤したであろうからとの仮定に基づく主張は不当である。

第二下高関地区堤防の破堤と設置又は管理の瑕疵

一  洗掘破堤と瑕疵の推定

本件下高関地区堤防は、昭和七年及び昭和九年の各洪水時に洗掘破堤し、七・一七及び八・二八の各洪水時も洗掘破堤したものである。洗掘破堤は水位が堤防天端より下位であるのに破堤することを意味するのであるから、洗掘箇所が根入れ部分であれ、高水護岸部分であれ、それ自体堤防に欠陥があることを明示しているというべきである。

二  余裕高部分の護岸工事の必要性

本件下高関地区堤防が第一審被告らのいう余裕高部分からの破堤であるとしても、堤防の余裕高は計画高水位に対する安全率を考えて設けられているものであつて、計画高水流量算定の確率的不確定性、理論計算の誤差、河床の予測しえない変化に対する余裕として、建設省河川砂防技術基準ではその最小値を定めているものである。本件河川災害発生当時、建設省で使われていた河川砂防技術基準では、「堤防の余裕高を必要とする主な理由はつぎのとおりである。(1)計画高水流量および計画高水位の決定はいかに慎重に行つても、洪水が降水という自然現象に起因するものであり、かつ計算の仮定とか方法が完全なものでないから、河積には余裕を必要とする。(2)河川の河状は変化する場合が多い。計画には勿論これらを考慮しなければならないが、長年月の間には予想以上の滞積を起すこともあり、これに対する余裕を必要とする。したがつて、余裕高は計画に対する安全率であつて、原則として堤防は越流させてはならないという前提になつているから、もし越流させることを考慮するような特殊な河川計画には、これらの基準はすべてあてはまらない。」と説明しているのである。

ところで、本件下高関地区は水衝部であるため、非常に洗掘破堤の危険性が高いのであり、そのうえ、吉川鑑定によれば、本件下高関地区のように凹部の水衝部では必ず水位上昇が伴うのである。これに本件下高関地区の前記破堤の歴史をふりかえれば、右水衝部の余裕高部分に洗掘の危険性を防止するための護岸工事を施すことは当然と考えられるべきである。ちなみに、第一審被告らの行つた全國事例調査でも余裕高部分からの洗掘破堤は本件も含めて九事例もあり、右調査事例のなかの5.3パーセントに過ぎないと過小評価されてはならない重要な問題を提供しているのである。そして、このような洗掘破堤を防止する措置として、本件下高関地区堤防直近の堤防に昭和九年頃天端まで施行された「野面練石積」工法は、八・二八洪水に耐え得たのであつて、当時の河川管理者及び工事施行者がどのような意図で右工事を施行したかどうかとは別に、余裕高部分の洗掘防止に役立つていることは争い得ない事実である。また、水衝部における余裕高部分の洗掘の危険性を回避するため、余裕高部分に護岸した場合の例としては、鹿児島県の一級河川「川内川」がある。

そうだとすれば、水衝部における余裕高部分の洗掘防止は、木流しなどの水防活動だけに委せられない河川管理者の重要な管理事項といわねばならないのであり、同じ一連区間といつても、その中で、水衝力の強弱、川の流れに対する危険の度合いの相違に応じた対策をたてることは当然なのである。

第一審被告らの基本的主張が、河川管理者の責任の範囲は計画高水位までであり、余裕高部分については無責であるというのに、八・二八洪水後本件下高関地区についてのみ、余裕高部分は勿論、天端及び裏法面まで護岸工事を施行したのは、二年連続破堤に対する行政的な特段の配慮では決してなく、本件下高関地区の水衝部そのものが、従前から高度の危険性をもつていたことを如実に証明するものである。

第一審被告らは、下高関破堤箇所を除く残余の加治川中流部には、下高関破堤箇所と同様洗掘破堤の危険を有していた堤防の水衝部が、八・二八洪水時点を基準にとつても多数存在したのであり、仮に昭和四二年度の出水期までに計画堤防天端までの高水護岸工事を右水衝部に施すとすれば、一億七〇〇万円を要すると主張する。

しかし、右岸の向中条地区から支川坂井川の麓地区付近の山付けの区間や左岸の西名柄地区から岡田地区山付けの区間等は、かりに破堤したとしても、本件下高関地区とは関係がない。また、七・一七及び八・二八洪水による連年破堤は右岸の下岡田地区と本件下高関地区だけであり、左岸についてはないのであつて、姫田川合流点以前の本川について当時最も危険をはらんでいたのは、右二箇所のみであるから、右主張も失当である。

したがつて、第一審被告らの本件下高関地区の管理上の瑕疵は明らかである。

三  「効用を一にする一連区間の堤防」について

第一審被告らは一連の堤防のどの部分が破堤しても氾濫によつて生じる被害がほぼ同じものを「効用を一にする一連区間の堤防」といい、河川は長年月と莫大な費用で治水機能を強化すべきものであるから、過渡的安全対策を講じる場合には、一連区間の各所の堤防の治水機能を客観的に判断して、その平均的な水準に合わせて施工するのが最も常識的であると主張する。

しかし、効用を一にする一連区間の堤防という概念は河川工学の教科書にも見当たらず、第一審被告ら独自の造語という外はない。のみならず、右主張によつて調べてみると、例えば右岸下流部については真野原地区付近から坂井川麓付近まで左岸下流部については真野原地区から岡田地区の山付け付近までがこれに当たることになるのであつて、一〇数キロメートルにわたる長大な堤防が一連区間ということになつてまことに不合理である。そのうえ、右岸下流部の一連区間であるという向中条地区から坂井川麓付近までについてみても、坂井川はもと麓付近の要害山を回つて紫雲寺町方面に流れていたものを現在の河道に改修したものであるため、〆切地区の堤防が破堤しても氾濫した河水は一般地方道二五三号線方向に流れ出し、あるいは遊水を生じ、この水が直ちに向中条等の背後地に達するものではないのである。また、右岸の姫田川合流点から上大友地区についてみても、下岡田安全橋付近の堤防に勾配差があるため、同所が破堤しても下岡田部落以外に影響はなく、さらに上大友の大新橋上下流の破堤は、直接、下高関や西姫田部落を襲うのではなく、一旦川に戻るのである。したがつて、右区間も一連区間とはいえない。

第一審被告らのいう右のような一連区間の堤防論自体に疑問があるうえ、この主張の論拠とする平均的治水機能向上論は要するに全体の改修計画を進捗せしめる以外にないという予算制約論につながる。これは河川管理者にとつてはまことに都合のよい理論であるが、河川災害によつて被害をうける國民にとつては是認できない立論である。

第三河川の未改修と管理瑕疵

一  計画高水流量の法的規範性

1  実定法としての河川法

現行河川法は、昭和四〇年四月一日施行された。旧河川法と異なり、河川管理主体の河川管理義務の強化や法的基準の設定等、近代的な公物営造物法として出発し今日に至つていることはいうまでもない。特に、河川法一六条は、一項で、「河川管理者は、その管理する河川について、計画高水流量その他当該河川の河川工事の実施についての基本となるべき事項(以下「工事実施基本計画」という。)を定めておかなければならない。」と定め、三項では、「河川管理者は、工事実施基本計画を定めるに当つては、降雨量、地形、地質その他の事情によりしばしば洪水による災害が発生している区域につき、災害の発生を防止し、又は災害を軽減するために必要な措置を講ずるように特に配慮しなければならない。」と規定し、また、同法一三条一項は、「河川管理施設又は第二六条の許可を受けて設置される工作物は、水位、流量、地形、地質その他の河川の状況及び自重、水圧その他の予想される荷重を考慮した安全な構造のものでなければならない。」と規定する。

これらの規定によれば、計画高水流量は、河川管理主体に作成が義務づけられた工事実施基本計画の主柱であり、その実施計画も災害の発生を防止し、又は災害を軽減するためのより安全な必要的措置として義務づけられているのである。

2  計画高水流量の法的規範性

河川法一六条にいう計画高水流量は工事実施基本計画の主柱をなすものである。いま、一定の河川の一定時期に定められた具体的な計画高水流量の法的意義を探ろうとすれば、(一)河川管理者の達成義務(二)瑕疵の有無の基準(三)予見可能性の三つが考えられる。

(一)の管理者の達成義務は、当該計画流量の設定した時から、直ちに完全に法的拘束性を伴うものと解し得ないとしても、少なくとも実施計画にもりこまれた完成時点に向けて計画達成の義務が生ずることは疑いをいれない。このことは、改修に長年月と莫大な費用の必要を考慮にいれても、河川法で保護される流域の國民にとつては早い方がよく、しかも同法一六条三項の趣旨からのその達成期間は一定の条理上の制限があるべきである。本件加治川では、昭和二七年に加治川合流点において毎秒二、〇〇〇立方メートル、合流前本川において、毎秒一、二〇〇立方メートルの計画高水流量の改修計画がつくられていたものである。しかるに、計画以来一四年間七・一七水害発生まで殆んど改修工事が行われなかつたものである。それ故にこそ、第一審原告らは、仮に右計画が達成されたならば、本件三地区の破堤は生じなかつたであろうと主張するものであり、管理者の怠慢を鋭く指摘してきたのである。

次に、(二)の瑕疵の有無の基準についてであるが、当該計画流量の適正算定の有無が瑕疵の有無の基準を設定すると考えてよいであろう。特に瑕疵論の客観説にたつた場合この法的意味は重要である。しかも、わが國では直轄河川をはじめ例外なく計画高水流量が歴史的に変遷し大巾の修正が行われてきた経緯がある。例えば、利根川については、明治三三年より六〇余年の間に毎秒三、七五〇立方メートルから毎秒一万七、〇〇〇立方メートルと4.5倍に増大してきている。これは自然的原因と人為的原因の二つがあるが、いずれにせよ、このような大巾修正傾向を考えれば、加治川における昭和二七年の毎秒二、〇〇〇立方メートルの計画が一四年後の昭和四一年に果たして妥当し得たのか、七・一七水害で県がいち早く毎秒三、〇〇〇立法メートルに計画変更した点をみても、それは毎秒二、〇〇〇立法メートルの計画そのものの計算の不当性が明確に指摘できるのである。

(三)の予見可能性は、國の主張する単なる行政の側の目標値という立場に仮にたつとしても、國が将来おこり得るであろう高水流量を設定したのであるから、当然に予見可能の範囲内の数値となり、そこから逃れることはできない。しかも、それは河川法に義務として定められた数値であつて、「かくあらねばならない」という数値であるから、その予測は規範性をもつに至るのである。

したがつて、七・一七水害の加治川本川合流点における流量が建設技研の調査で毎秒二、二一二立方メートル、吉川鑑定附属資料二ノ五で毎秒二、三三九立方メートル、同資料二ノ四(中安法)で毎秒一、九三四立方メートルであるから、少なくとも、不可抗力に通ずる異常出水であるとする第一審被告らの主張を肯認するわけにはいかないのである。

二  河川改修予算の貧弱性

河川改修に膨大な費用と時間を要することは一般論としては否定し得ないが、このことは道路についても同様である。しかるに、道路予算に比較して、わが國の河川改修予算は極めて少ないのであり、昭和三〇年度道路整備事業費が三九八億円、治水事業費が三三六億円であるのに、昭和四〇年度には前者が、五、三六三億円、後者が一、三五六億円とほぼ四対一の差となり、昭和五〇年には前者が一兆九、八四九億円に対し、後者が五、一〇七億円とやはり四対一の差が続いているのであつて、河川改修事業に要する莫大な費用と長年月の工事の必要性を強調するならば、まずこの予算配分そのものを改めるべきである。

第一審被告らは、この点につき、「國家予算において河川関係にどの程度の予算措置をするかということは、立法機関が政治的に判断することであつて、河川管理者において予算措置をする義務があるとするのは失当である。」と非難するが、予算の提出権は内閣にあり(憲法七三条五号)、議員立法はごく限られた条件のもとでしかできないのである。しかも、議院内閣制のもとで衆議院で過半数を占める政党の代表が総理大臣に就任し、右に権限が集中していることは否定し得ない事実である。それ故第一審被告らも主張するように昭和三五年から昭和五一年の間に四次にわたり治山治水計画が閣議決定され、昭和五二年度からは第五次のそれに入つているのである。要するに、治山治水計画は予算を含め、内閣が責任をもち、内閣のなかでは建設大臣が直接的に責任をもつのであつて、これを立法機関に責任転嫁するのは全くの筋違いである。

さらに、地方交付税法に基づき、自治省が各都道府県と市町村に交付税を交付する際の基準財政需要額についてみると、道路橋りよう費では一キロメートル当たり一八五万六、〇〇〇円が交付されるのに、河川では、一キロメートル当たり僅か二六万円に過ぎない。これでは、新潟県のように河川数で全國一位、水系数で第五位、河川延長で第四位(昭和四二年度)というところでは、この河川に対する地方交付税の少なさが県予算の編成にも大きく影響するのである。のみならず、昭和四一年、昭和四二年の連年水害で同県の河川予算は伸びたとはいえ、県内に高速道路等皆無であつた昭和四五年ですら、道路が一八二億円であるのに河川は一七六億円、昭和四九年で前者が三四一億円、後者が二三七億円と道路予算が常に河川予算を引き離していることがわかるのである。これでは都道府県にとつては河川はない方がましということにならざるを得ないのである。さらに、通常の河川改修の場合における國の助成費は二分の一に過ぎず、災害復旧費で、はじめて0.695と7割近くに上昇するのであつて、このような予算の仕組のなかで財政力のない都府県では、河川管理そのものが災害待ちを基本とする姿勢となつていくのであり、右予算の仕組がその実態を反映しているのである。

三  河川道路二元論について

道路と河川を峻別し、人工公物対自然公物として、前者には絶対的安全確保義務が認められるが後者には認められないという見解は、現実の河川の歴史的変遷を無視するものである。すなわち、河川は歴史的に、自然公物であつたとしても、一級、二級河川以外の普通河川ならいざしらず、殆んどの河川は戦国時代、江戸時代の昔より瀬替(在来の流路が改修できないか、屈曲が多いため、新しい河道を求めて付替えること)や分水もしくは分離・分流を行つてきており、河川には自然史と社会史との二つの姿態があるなかで今日もはや厳密な意味で「自然史の延長上にないわが國の河川」というのが実態である。河川法四条によれば、河川とは「公共の水流及び水面」をいうとされ、水流とは「流水とこれを支える敷地の統合体」を指すものである。この河川を管理するため堤防、護岸等の「河川管理施設」(河川法三条二項)が設置されるのであるが、これら管理施設の殆んどは今や治水工事に伴う人工公物であることは異論のないところであろう。

次に、河川に膨大な費用と時間のかかることは、道路についても同様であり、しかも、今日の道路事故事例は圧倒的に自動車事故との関連であり、そのうえ、最近では落石事故や土石流、地震後の処理等によるいわば道路の周辺環境をめぐる問題に焦点が移されてきたのである。そうであれば、危険回避手段があるからといつて、未整備の道路に自動車を走らせることもできず、瑕疵なき道路をつくるためにはそれこそ莫大な費用と時間が必要であろう。反対に、河川には危険回避手段がないからという考えに従えば、それこそ河川に大きな予算が注ぎこまれて然るべきものである。

さらに、河川と道路の差異は、道路には人や車が流れ、河川には流水が走るという差異しかない。この差異自体は当然のものであつて、ただ危険回避手段が、河川の場合には水流制御という観点から、洪水処理計画として流量調節法や被害軽減法が考えられ、洪水調節池や遊水池、霞堤、籠堤等の方法が考案されてきたのであるが、建設省の現今の方針が洪水疎通法(堤防をつくつて流水を海におし出す。)とダムを主体とした調節法のみ実施しているというだけである。

したがつて、河川に危険回避手段がないというならば、道路に倍する河川予算を組まないことが批判されるか、右の建設省の洪水処理方針が批判されるかのいずれしかありえず、それ故にこそ、道路と異なり河川には絶対的安全確保義務なしとする論拠には到底なり得ないのである。

(第一審被告らの補足的主張)

第一向中条、西名柄地区の仮堤防が通常備えるべき安全性

一  右仮堤防と他の同種仮堤防との対比

一般に仮堤防は本堤防工事が完成するまでの間の応急対策として緊急に施行される仮施設であり、その規模構造については仮堤防の緊急性、背後地の重要性及び在置期間等を考慮して施行されるものである。

したがつて、仮堤防は本堤防工事が完成するまでの間、すなわち、被災年の出水期から翌年の出水期を越す程度までの非常に短かい存置期間内の背後地の暫定的な安全が確保される断面、構造とすれば足りるものであるから、その計画対象水位、堤体の構造等において本堤防と差異のあるのは当然である。そして、仮堤防の通常備えるべき安全性の存否についての判断は、過去の経験の蓄積に基づき仮堤防としてその効用を果してきた断面、構造、材質、工法等で築造されているか否か、他の類似仮堤防のそれと比較してどうか等の観点から判断されるべきであり、右の観点からみて本件仮堤防が水準以下のものでなければ通常有すべき安全性は備えていたというべきである。

1  仮堤防の施行事例の全國調査結果との比較

第一審被告國は、本件向中条、西名柄両地区の仮堤防が一般の破堤災害後に設置した仮堤防の施行事例と比較して、仮堤防の通常備えるべき安全性を備えていたかどうかを検討するため、全國の河川について破堤災害後に設置した仮堤防の施行事例の調査を行つた。右調査は全國都道府県及び各地方建設局(北海道開発局を含む)に対し、破堤災害後に設置した仮堤防の施行事例の調査を依頼したものであるが、その調査対象期間は本件仮堤防の施行が昭和四一年であつたことを考慮して、昭和三〇年代半ばから現在に至る期間に発生した破堤災害を対象とした。右調査依頼に対して、一九府県から八〇事例、三地方建設局及び北海道開発局から五事例の回答があつたが、本件向中条、西名柄両地区仮堤防との比較検討を行うには、加治川が県知事管理の二級河川であること、加治川の河川規模が昭和四一年当時計画高水流量毎秒二、〇〇〇立方メートル、堤防の高さ約六メートルであつたことを考慮して、右八〇の全回答事例のうちから、主として一級河川の指定区間及び二級河川(府県知事管理の河川)で計画高水流量毎秒五〇〇立方メートル程度以下のものないし堤防高の著しく低いものを除外した一四事例を選択し、なお、参考として加治川の河川規模を上回る一級河川の直轄管理区間における施行事例五例についても一応の比較検討を加えることとした。

右調査の結果と本件仮堤防とを比較すると、概ね次のとおりである。

(一) 仮堤防の高さ

向中条、西名柄地区の仮堤防は破堤した在来堤防天端より一メートル下りの高さを計画対象水位とし、その上部に一メートルの余盛を施したものであつて、結果的には破堤した在来堤防とほぼ同じ高さに築造されたものであり、破堤箇所に接続する在来堤防とも一連の高さとしたものである。この仮堤防の高さはまさに一般的通例として施行されているとおりのものであつて、前記調査事例と比較して決して劣るものではない。

(二) 仮堤防の断面形状

向中条、西名柄地区の仮堤防は、天端幅三メートル、直高平均六メートル、裏法勾配1.5割の断面形状であり、本件仮堤防に接続する在来堤防と比較して劣るものでない。これも一般的通例として施行されているところと合致しており、前記調査事例と比較して劣るものでない。

(三) 仮堤防の表法面被覆土

向中条、西名柄地区の仮堤防は川表堤脚部に普通鋼矢板(矢板長さは向中条では六ないし一〇メートル、西名柄では八ないし一〇メートル)を打ち込み、その上部法面に天端より一メートル下りの高さまで1.5割の勾配で蛇籠被覆を施したものであり、さらに鋼矢板の前面には一次締切りの施行した杭打麻袋積があるため根固工の役割を果しているものである。しかるに、前記調査事例では、蛇籠工より安全性において劣る土俵工が最も多数を占めていたのであつて、蛇籠被覆を施した点は前記調査事例と比較して決して劣るものではない。

(四) 仮堤防の存置期間

向中条、西名柄両地区の仮堤防存置期間は同地区の大屈曲部をショートカットする新河道に通水する昭和四三年三月末までであつた。すなわち、本件仮堤防は昭和四一年の出水期の後半及び昭和四二年の全出水期間中の洪水に対処するためのものであつた。この存置期間は工事施行の手順上やむを得ないものであつて、調査事例中で堤防法線を変更して改良復旧される工事はすべて同様の存置期間となつており、本件堤防のみが特に長く存置させていたものではない。

(五) 築堤材料

本件向中条、西名柄両地区仮堤防は緊急に大量の盛土を使用して施行するため内陸部の砂丘砂を採用し、これに適合した堤防断面並びに構造として施行したのであり、その築堤材料は向中条地区残存堤防の土質試験(三木鑑定)によれば九二パーセントの砂分を含む砂質土である。この築堤材料は前記調査事例のほとんどが砂あるいは礫混じり砂又は砂混じり礫の堤防であることから、一般的通例として施行されているところと変わらず、土質工学的にみても透水係数は礫が大きく、次に砂、シルト、粘土の順に小さくなることから、前記調査事例と比較して決して劣るものではない。

本件仮堤防の築堤材料は、出水期間中であるため、緊急に大量の盛土をもつて施行する必要が存したことから、この要件を充足する近傍の内陸部砂丘を土取場として選定して手当したものであるが、このように近傍の多量に得られる土砂をもつて築堤材料の手当をするのは一般的通例に合致しているものである。

本件仮堤防には、厚さ三〇センチメートルの粘質土の被覆土を施しているが、前記調査事例で被覆土を施しているのは、一九事例中四事例にすぎず、この点からはむしろ程度の高い工法であつたといえるものである。

また、堤防の築堤材料としては学説上、一般に砂三分の一から三分の二、粘性土三分の二から三分の一の比率で混じたものが好適であるとされている。しかしながら、築堤には極めて多量の土砂を必要とし、その築堤材料として右のような理想的といわれる成分を有するものを手当するということは実際にはほとんど不可能に近いため、近傍から多量に得られる土砂を築堤材料として選定、使用し、その土質に適合する堤防断面と構造を考慮するのが河川工学の常識であり、河川工事の実態でもある。現存する堤防のほとんどが学説において理想的とされている築堤材料とは大巾に異なるもので築造されている。ましてや、出水期間中に応急対策として施行される仮堤防は、緊急に大量の盛土が必要なことから、必要な土量の確保に主眼を置いて土取場が選定され、その土質に適合する仮堤防の断面と構造を決定するのが常識となつており、結果的にその築堤材料は、教科書でいう好適な材料比とは大巾に異なるものとなつているのであり、このことは前記調査の結果からも明らかである。なお、河川管理施設等構造令は、築堤材料についての特別の基準を設けてはいない。河川堤防の築堤材料は膨大な土量を要するので経済的見地から、できるだけ現場に近い土取場から入手して使用するのが河川工事の原則であり、実際の施工にあたつては材料の選択はほとんど許されないのが現状である。また、全國各地方の実際の河川堤防(本堤防)の築堤材料について実施した粒度分析の結果と本件向中条地区の仮堤防(残存部)について実施した粒度分析を比較してみても、本件向中条地区仮堤防の築堤土が、全國の河川堤防の築堤土と比べて築堤材料として劣るものではない。

2  以上述べたとおり、本件向中条、西名柄両地区の仮堤防はその堤防高、堤防の断面形状、堤防表法面の被覆土ばかりでなく、その築堤材料の点においても、一般の仮堤防施行事例と比べて決して劣るものではなく、破堤災害後の応急対策として適切なものであり、通常備えるべき安全性という要請を十分充足していたことは明らかである。

二  向中条、西名柄両地区仮堤防が溢水破堤しなかつたと仮定した場合における同仮堤防の通常備えるべき安全性

1  洪水継続時間との関係

右仮堤防の断面決定に際し加味した洪水の継続時間は既往洪水の継続時間を勘案したものである。すなわち、既往洪水の継続時間は昭和三六年七月四日洪水の一一時間が最大であり、その他の洪水にあつては一ないし四時間であるので、既往最大である一一時間を採用してより安全を確保したものである。しかし、右既往洪水中、昭和三六年七月一一日洪水については最高水位四メートルと観測されているが、継続時間については自記観測がなされる以前において発生したものであるから、記録されていないので、この洪水の継続時間について推測してみると、概ね六時間程度となる。

次に、八・二八洪水の岡田測水所の洪水継続時間(警戒水位以上)は、約一五時間であり、向中条仮堤防においては、破堤までの洪水継続時間は約一〇時間三〇分(二八日午後二時半ないし二九日午前一時)もしくは約一二時間(二八日午後一時ないし二九日午前一時)であり、西名柄仮堤防においては破堤までの洪水継続時間は約一一時間(二八日午後二時半ないし二九日午前一時半)であつた。

以上のことからみて明らかなように、本件向中条、西名柄地区仮堤防はその存置期間中に通常発生する洪水に対してのみならず、過去最大の洪水に対しても十分対処したものであり、仮に本件破堤が溢水によるものでなく浸透によるものであつたとしても、右のようなかつてない長時間にわたる洪水継続時間を経た後に破堤したのであるから、両地区の仮堤防には何ら設置、管理の瑕疵は存しないのである。

2  在来堤と同等の強度をもつていたとした場合

本件向中条地区仮堤防は二九日午前一時ころ溢水破堤したものであつて浸透破堤したものでないことは前記のとおりであるが、仮に同地区仮堤防が在来堤防と同等の強さをもつていたとした場合に、果して八・二八洪水時溢水破堤を免れ得たか否かを検討してみる。

七・一七洪水時、向中条地区堤防は、溢水深一〇センチメートル程度で溢水破堤したこと、また、当時溢水の幅もかなりの範囲にわたつていたことは前記のとおりである。これに対し、八・二八洪水時においては、前記のとおり、波が天端を越流するという程度を多少上回つた程度ないしは満水より若干上位の水位程度で溢水破堤したものであり、また、その当時の溢水巾もおそらく一〇メートルないし二〇メートルを越えないものであつたであろうことは推認するに難くない。そして、右事実だけを比較すると、同地区仮堤防が在来堤防と同等の強さをもつていて、裏法尻の崩落などが起らず、したがつて、その防止のための水防活動に人員をさかれず、溢水防止のための水防活動に十分な人員をさくことができたとしたら、あるいは溢水破堤という事態を招かずに済んだのではないかというようにもみえる。しかし、七・一七洪水時の破堤時刻は、午前一一時という日中であつて、水防活動にとつてはきわめて好都合な条件に恵まれていたにもかかわらず、同地区堤防は、結局溢水深約一〇センチメートルで溢水破堤している。それに対し、八・二八洪水時においては、その破堤時刻は午前一時過頃という深夜であつて、水防活動の能率が大きく阻害される悪条件下にあつた。また、七・一七洪水時向中条地区堤防が破堤したころは、七・一七洪水が最高水位に至つたときであつたが、八・二八洪水時においては、同地区仮堤防が破堤したころはなお水位急上昇期半ばにあつたものであるから、それ以降も水位は急激に上昇して溢水深、溢水巾も前記の程度に止まらず、七・一七洪水時をも大巾に上回る程度になつたであろうと考えられるから、仮に、二九日午前一時に溢水破堤しなかつたとしても、いずれは溢水を生じ破堤することとなる。

第二下高関地区堤防が通常備えるべき安全性について

本件下高関地区の新堤防は工事に着手してわずか一年足らずで根固工及び河床の掘削を残した程度に進捗していたが、いまだ全川的な流下能力が向上していない工事途上にあつたものであるから、右新堤防の通常備えるべき安全性の存否は計画高水流量規模の洪水に対する安全性ではなく、七・一七洪水前の流下能力に相当する洪水に対する安全性について「効用を一にする一連区間の治水機能」と均衡しているかどうかという観点から判断されるべきものであつて、その構造、施行順序等の点においては他の箇所や類似の他の河川において通常採られているものと比較して劣位なものでなければ通常備えるべき安全性を有していたというべきである。

一  計画高水流量規模程度の洪水を対象とすることの不当性

七・一七洪水は記録上過去に経験したことのない大洪水で、加治川は各所で決壊、溢水、破堤が生じ潰滅的な災害をこうむつたことから明らかなように、在来の加治川の治水機能の限界をはるかにこえる規模の洪水であつたのであり、そのための対策として、在来堤防(破堤箇所を含む。)を部分的に改築したり、補強する程度の姑息な対策では到底七・一七洪水程度の洪水に対する安全性を確保することは不可能であるから、加治川全般にわたつて河幅を広げ、河床を下げて河積を拡大し、堤防を拡大強化し、堤防法線を是正する等の抜本的な河川改修工事を施行して治水機能の増大を計るため、第一審被告らは七・一七洪水後すみやかに加治川の改修計画を策定し、直ちに改修工事に着手したものである。したがつて、七・一七洪水程度の洪水に対する安全性が確保されることは、右改修工事の完成にほかならないのであるから、右改修工事が完成するまでの間の過渡的安全対策の対象として、右改修工事の結果である七・一七洪水程度の洪水に対する安全確保義務を要求することはまことに当を得ないものである。右過渡的安全対策は河川全般の改修工事の進捗状況およびこれを施行しようとしている区間の上、下流、対岸等の状況を考慮しつつ、効用を一にする一連区間の堤防がその時点で有している平均的治水機能等とくらべてバランスを失しない範囲内において施行すべきものである。なお、この場合の「一連区間の堤防」というのは、途中で河川まで接近している山、高台あるいは合流する支川の堤防等で分断された一続きの区間をいうのであり、その区間における破堤による氾濫は、その下流端で山、高台等にさえぎられて河川にもどり、他の地区に影響を及ぼさないものである。このような関係にある一続きの堤防を「効用を一にする一連区間の堤防」という。この一連区間は、山間部を流れる河川においては一般にこまかく分断されており背後地(氾濫区域)は狭く、平地になる程長くなり、海に至る最下流部で最も長くなり、背後地も非常に広いのが普通である。また、「効用を一にする」とは、一連の堤防のどの部分が破堤しても氾濫によつて生じる被害はほぼ同じ(もつとも一連区間が非常に長い場合は上流部の破堤と下流部の破堤ではそれによつて生じる被害にかなりの違いはある。)であることから、一連の堤防のすべての部分が同一目的の効用を有しているということであり、換言すれば、一連の堤防の全区間が同程度の治水機能を有していない限り、一連の堤防としての効果は発揮されないということである。

二  下高関地区堤防の治水機能

本件堤防を八・二八洪水当時の災害復旧助成事業区間内の堤防全般について比較すると、当時高水護岸が右事業で施行されていた区間は、下高関地区を含む下岡田地区より上流、東柳橋、下流上大友地区までの加治川右岸の一連の区間においては、本件堤防を除けば、上大友地区の七・一七洪水破堤箇所約一二〇メートルのみであり、また、右事業全区間においても右岸加治大橋上、下流約七八〇メートル、左岸岡田地区上流山付堤部約三〇メートル、左岸下新保地区下流端約六〇メートル、右岸東柳橋下流約八〇メートルのみである。このように当時高水護岸が施行されていたのは破堤箇所ないしは堤防決壊の特に著しかつた区間に限られており、他のほとんどの区間は低水護岸を施工中であり、堤防表法面は土羽の状態であつた。また、加治川においても最も重要な向中条、西名柄両地区のショートカット工事が施工中であり、次に重要な左岸羽越本線鉄橋より上流岡田地区までの区間の堤防(加治川橋上流部は相当の湾曲部となつている。)についても高水護岸は設けられていなかつた状態である。特に本件堤防は水衝部であるため一般の箇所には計画されていない高水護岸を他に優先して施工したものである。一般的な水衝部の対策としては、低水護岸および高水護岸を施すほか堤防表法面脚部の洗掘を防止するため根固工を設けるのが通例である。本件堤防においても根固工を計画していたが、八・二八洪水当時これは未施行であつた。しかし、堤脚部の洗掘に対しては安全であつた。

以上述べたとおり、下高関地区を含む一連区間もしくは右事業区間全般の堤防の状況と比較しても、本件堤防の治水機能は、他の平均的レベルよりも決して優るとも劣るものではなかつたということができ、過渡的安全対策としてこれ以上の特別の措置を講じる必要はなかつたものである。

次に、本件堤防の上流部一帯の堤防表法面に天端まで野面石練積が施されている点についてであるが、右野面石練積工事は昭和七年および九年に二度にわたつて破堤した後災害復旧事業として施行されたものであるけれども、当時の破堤原因、破堤の状況、河床の状況、洪水位および野面石練積の高さを天端付近に決めた経緯等については一切不明である。

三  下高関地区堤防の構造、工事の施行順序

1  破堤原因の全國調査事例の検討

第一審被告國は、全國の河川の破堤災害におけるその破堤原因の内容を調査し、これに基づき、下高関地区堤防の余裕高部分の表法面に洗掘防止のためのコンクリートブロック張り構造の高水護岸を施すべきであつたかどうかを調査した。調査対象期間は、本件下高関地区の破堤が昭和四二年であつたことを考慮して、昭和三〇年代半ばから現在に至る期間に発生した河川堤防の破堤災害を対象とし、調査対象河川は、本件下高関地区の破堤箇所の河川規模が昭和四二年当時計画高水流量毎秒一、一四〇立方メートルであつたことを考慮して、計画高水流量毎秒五〇〇立方メートル程度以上の築堤河川の破堤災害を対象とした。右調査結果によると、四二〇回答事例中、溢水破堤は二四二事例で全体の57.6パーセントを占め、洗掘破堤は一六八事例で全体の四〇パーセントであり、漏水破堤及びその他が一〇事例で全体の2.4パーセントである。

次に、洗掘破堤の場合における破堤原因となつた洗掘箇所の調査結果についてみると、一六八回答事例中、堤体下部からの洗掘破堤は一一一事例で洗掘破堤全体の66.1パーセントを占め、堤体中部からの洗掘破堤は四四事例で洗掘破堤全体の26.2パーセントであり、両者を合せた堤体中部以下からの洗掘破堤は一五五事例で洗掘破堤全体の92.3パーセントを占めている。また、本件下高関地区破堤箇所と同様の堤体上部(余裕高部分)からの洗掘破堤は、本件箇所も含め九事例で、洗掘破堤全体の5.3パーセントでしかなく、回答事例全体四二〇事例に対し2.1パーセントにすぎない。

以上、この調査結果によつても破堤原因として堤体上部(余裕高部分)からの洗掘破堤は特に異常な現象であり、統計的にも非常に稀有なものである。堤体上部(余裕高部分)から洗掘破堤した九事例の堤防は、本件下高関地区新堤防以外で計画高水位まで高水護岸を施しているのは、富山県の一事例(根固工も施工)で他は土羽堤かまたは土羽堤に近いものであり、本件と同様な事例として上げることができるのはこの一事例にすぎない。また、右九事例の河川で、本件より計画高水流量が大きいものは三事例、河床勾配が急なものは三事例であり、この九事例中河川状況の条件として本件が悪かつたとはいえないものである。

2  洗掘力の水理学的検討

堤防表法面の洗掘は通常堤防脚部から洗掘がはじまり、法面上部に向つて次第に拡大していくものである。

このことは堤防の決壊箇所を観察すると堤防脚部が最も激しく洗掘決壊しており、上部にいくに従つて洗掘の度合が小さくなり、天端近くは法面が残つている事例が多いことからも明白であり、また長年月河川工事にたずさわり、災害現場を多く経験してきた技術者の等しく認めるところである。前記の全国洗掘破堤事例では、堤体中部以下からの洗掘破堤が92.3パーセントであることからも、経験的に河川工学の常識となつているところである。また、水理学的には、洗掘力は流水の水深に比例するものであつて、洗掘力は河床が最大であり、上部に向つてだんだん小さくなり、水面で最小となる。さらに、洪水のピーク流量付近の水位上昇はわが国の降雨及び地形条件からして中小河川では比較的短時間であるため、水面付近の余裕高部分では洪水の流れに曝される時間が堤体中部以下に比べて短く、流勢も水中の下部に比して激しくないから、水面付近に作用する洗掘力は水中の深い部分に比べてきわめて小さいものとなる。

したがつて、仮に計画高水位以上に洪水が上昇し、余裕高部分が流水にさらされる事態になつても(仮に堤防の設計条件を越えて洪水位が上昇しても)、その洗掘力は水中の深い部分にくらべて比較的小さく、かつ、その継続時間も短いので余裕高部分の法面には普通大きな洗掘力は生じないものであつて、一般に余裕高部分に洗掘防止の高水護岸を設けない理由もまたここにある。

以上のとおり、本件下高関地区破堤箇所の新堤防は、全国の洗掘破堤事例からも、また水理学的証明からも明らかなとおり、破堤災害後の改修工事として適切なものであり、その堤防高、断面構造ばかりでなく、堤防余裕高部分の構造の点においても、通常備えるべき安全性を十分満していたことは明らかである。

3  余裕高部分の表法面に高水護岸を施すべきか

(一) 余裕高について

堤防の余裕高は、計画水位をこえる一時的な水面上昇による溢水を防止するため設けるものであり、計画高水位以上の洪水に対処するために設けるものではない。したがつて、余裕高部分には洗掘防止のための高水護岸を設けないのが現在の河川工事の通例である。しかし、河川改修工事が完成するまでの間は、計画高水流量以下の洪水が来ても計画高水位を上回るという事態は起り得るのであり、そのような洪水によつて溢水破堤以外の原因で破堤するとの事態も起り得るわけであるが、それは堤防の設計水位(設計外力)をこえる洪水によるものである以上、一般的にはやむを得ない事態であるといえる。

(二) 余裕高部分に高水護岸を施すことの意義

堤防の設計は、すべて計画高水位を基準として行われ、計画高水位の上に余裕高を設けることによつて計画高水位までの堤防の安全性が確保されるものであつて、余裕高は計画高水位以上の洪水に対処するために設けるものではない。そして、設計外力として計画高水位を基準として設計されている堤防の余裕高部分に高水護岸を設けた場合、そのことによつて設計外力は増大されたといえないのである。すなわち、計画高水位の上に0.5メートルの高さまで高水護岸を設けた場合、計画高水位より0.5メートル高い洪水に対して安全を確保するためには、その上にさらに必要な余裕高を設けてはじめてそのような洪水に対して堤防の安全性が確保できるものである。堤防天端まで高水護岸を施せば、天端一杯までの洪水に対して堤防の安全性が確保されるというものではない。また、堤防の浸透に対する安全性も天端一杯の洪水に対して設計されておらず、堤脚部の洗掘力も水位上昇分だけ増大する等、種々の外力が設計外力を上回ることになり、天端一杯あるいは天端より若干下りの洪水に対しては決して安全性が確保されるものではないのである。また、天端より若干下りの洪水の程度についても、どの程度の洪水に対してまでならば堤防の安全性が確保されるのかということになると、その限界については明確でなく、また、だれしも保証できるものではないのである。このように考えていくと、堤防の安全性の確保の限度は結局計画高水位までの洪水に対してであるということにならざるを得ないのである。

(三) 余裕高部分に高水護岸を施していたとしても、八・二八洪水に対しては安全であつたといえないこと

八・二八洪水の水位は破堤時にはほぼ天端に達しており、かなりの越波があつた。したがつて、仮に天端まで高水護岸が設けられていたとしても、かなりの越波により、築造されたばかりでいまだ芝の生育していない天端それ自体および裏法面が洗掘され破堤にいたつたことは充分に考えられるのであるし、また仮に破堤しなかつたとしても、それは辛うじてもちこたえたという状態であつたに違いなく、天端まで高水護岸を施しておけば、八・二八洪水に対して、確実に本件堤防の安全性が確保できたと明言し得るものではない。

したがつて、本件堤防を越波等に対しても右堤防と同程度の強さにするためには、天端まで高水護岸を施すことのほか、さらに天端、裏法面をコンクリートで被覆しなければならないことになり、過渡的安全対策の範囲をこえた過大な対策をとらざるを得ないのである。

(四) 本件堤防でも七・一七洪水程度の洪水に対しては安全であつたと推定されること

八・二八洪水の水位は、先に述べたとおりほぼ天端近くまで達していた。これに対して七・一七洪水の水位は天端より七〇センチメートル下り前後であつて、八・二八洪水は、七・一七洪水を少なくとも0.5ないし0.6メートルも上回るものであつた。

ところで、本件堤防においても、八・二八洪水の水位がもし仮に0.5ないし0.6メートル程度低かつたとしたら、計画高水位を上回る洪水の継続時間も格段に短くなる。したがつて、余裕高部分の土羽堤が洪水にさらされる高さも時間もともに短くなるので、洗掘も小さくてすみ、破堤しなかつたといい得るのである。

4  加治川中流部の水衝部との比較

(一) 仮に本件堤防において天端まで高水護岸を施していて、八・二八洪水の破堤をまぬがれえたとしても、本件地区を含む下岡田地区より上流、東柳橋下流上大友地区までの加治川右岸の一連区間の堤防はすべて十分安全であつたといい得たのであろうか。

右一連区間の被災状況についていうと、下岡田地区において水衝部である七・一七破堤箇所が再度破堤した。下高岡地区においては、本件破堤箇所の下流側二〇メートルは天端の三分の一程度まで洗掘し破堤寸前となつた。また、高新橋上下流一帯は一部が破堤し、他は破堤寸前にいたる洗掘を生じた。上大友地区においても水衝部である七・一七破堤箇所が破堤寸前の洗掘を生じたのである。このように、右一連区間の堤防は各所において激甚な災害を受けており、まさに辛うじて持ちこたえたという状態であつたのであり、もし仮に本件堤防が破堤しなかつたとしたら、他のどこかが破堤した可能性も十分あり得たのである。特に、右各箇所の内でも上大友地区は七・一七洪水で破堤し、八・二八洪水でも破堤寸前に至る決壊の被害を受けたこと、本件下高関地区より早期に月の輪工法、木流し等の水防活動を開始したこと、本件下高関地区より上流であるからその河床勾配は二〇〇分の一ないし二五〇分の一と急であること、この堤防のすぐ裏側にある竹林の面積もわずかであるから副堤的役割を果すものでもなく、破堤すれば氾濫水の水勢が若干和らぐ程度で下高関地区と同様大量に背後地に流出するおそれは大きいことなどから、その危険性は下高関地区と比較して差はないのである。

さらに、本件下流の高新橋上下流一帯は破堤しており、それも本件堤防より早い時間に破堤している。したがつて、仮に本件堤防の余裕高部分に高水護岸を施していて、八・二八洪水時に破堤しなかつたとすれば、右高新橋上下流一帯の破堤箇所はさらに拡大していたことは容易に推認できるものであり、結果的に本件下高関地区の背後地は、同一の被害を蒙つたものと推認し得る。また、八・二八洪水当時加治川には危険箇所は数多くあり、本件地区が破堤したという結果のみをみつめて、本件堤防についてさらに安全対策を講じておけば、他はすべて安全であつたとは一概にいい切れないのである。そして、八・二八洪水による破堤という結果が出る以前の時点で、仮に本件堤防に過渡的安全対策として特別の措置を講じるとすれば、ここにも、あそこにもということになり、まさに際限のないことになるのであつて、限られた予算では本来の河川改修事業に支障を来たすことにもなりかねない。すなわち、下高関地区破堤箇所以外の他の水衝部堤防はいずれも七・一七洪水によつて破堤ないし破堤寸前に至つたものであり、七・一七洪水程度の洪水が生じた場合洗掘破堤する危険を有していた「最も危険な箇所」であり、「特に重視すべき危険」のある箇所であつた。それらはまた、背後地の状況においても、下高関破堤箇所に劣らない重要性をもつ箇所であり、右破堤箇所について過渡的安全対策を採らなければならないとすれば、これら多数の水衝部堤防についても、八・二八洪水時までに同様の措置を講じておく必要があつたことになるのである。

そうだとすれば、そのための費用が本来の改修事業の進捗にどの程度影響するかという観点から取り上げる場合、対象を加治川中流部右岸に限定する理由は何らなく、加治川中流部全体から危険な箇所を選び出し、その安全対策措置に要する費用を中流部改修事業費と比較しなければならない。

(二) そこで、加治川中流部(西名柄・向中条地区から東柳橋付近までの間)における洗掘破堤の危険を有していた箇所を、効用を一とする一連区間ごとにいずれも背後地の重要な堤防の水衝部を摘示してみると、①右岸の向中条地区から、支川坂井川の麓地区付近の山付けまでの一連区間の堤防においては、(イ)向中条地区湾曲部、(ロ)下小松地区から早道場地区の加治大橋上下流にかけての区間、②左岸の西名柄地区から岡田地区山付けまでの一連区間の堤防においては、(イ)西名柄地区湾曲部、(ロ)島潟地区から高浜地区の姫田川合流点上流にかけての区間、③右岸の姫田川合流点から上大友地区までの一連区間の堤防においては、(イ)下岡田地区の安全橋上流、(ロ)下高関地区の高新橋上下流、(ハ)本件下高関地区、(ニ)上大友地区の大新橋上下流、④左岸の下新保地区から高新橋上流霞堤までの一連区間の堤防においては、下新保地区の高新橋下流、⑤高新橋上流霞堤から上竹内地区までの一連区間の堤防においては、(イ)下新保地区の大新橋下流、(ロ)上新保地区の大新橋上流の以上一一か所がある。

このように、加治川中流部の一連区間の堤防には本件下高関地区の破堤箇所のほか数多くの危険な水衝部区間があり、これらはその背後地に多くの集落を控え、堤防の重要度ないし経済効果という点においても、右下高関地区と比べ優るとも劣ることのない区間である。

(三) そこで、仮に昭和四二年度の出水期までに計画堤防天端までの高水護岸を前記水衝部(水衝部の解消を図る向中条地区及び西名柄地区と霞堤を控えた下新保地区を除く)に施すとすれば、その追加費用は約一億七〇〇万円必要となるところ、加治川中流部の改修事業は災害復旧助成事業として同事業費によつて行われるもので、特別な措置を講ずるために費用を投ずることは必然的に同事業費に食い込むことになるのであるから、加治川中流部の改修を支障なく行い得るかどうかという観点からの考慮においては、同事業費に対し、特別な措置を講ずるために必要な費用がいかなる比率を占めるかが問題となるからである。

次に、右事業の河道計画は河床を掘り下げて、かねてから懸案であつた天井川の解消を図るとともに河幅を広げて河積を拡大すること、堤防法線を是正し流路を整正すること、堤防を強化拡大し、護岸根固工を整備すること等を骨子とし、特に、昭和四三年度の出水期までに、羽越線下流の向中条、西名柄地区の大湾曲部をショートカットした直線河道に改良することを眼目としていたものである。したがつて、本件下高関地区等残余の河道計画は同事業費から優先的に確保されるべきショートカット費用を控除した工事費によつて行われるのであり、特別な措置を講ずるために投ずる費用が他の改修事業にいかなる影響を及ぼすかについては、あくまでも右災害復旧助成事業における事業費のうち、右事業の主眼であるショートカットに要する費用を除く工事費との関係において判断すべきものであり、そのうち、特に昭和四二年度の出水期までの措置とするならば、昭和四一年及び同四二年度の右工事費との関係において検討すべきものである。

そこで、昭和四二年度の出水期までに安全対策上特別な措置として、計画堤防天端までの高水護岸を中流部一連区間の堤防の各水衝部に施すとすれば、その追加費用一億七〇〇万円は昭和四一年度の本工事費(ショートカット費用を除く)二億七、〇〇〇万円に対しては三九パーセント、同四二年度の本工事費(ショートカット費用を除く)三億二、〇〇〇万円に対しては三三パーセント、同四一年度と同四二年度の本工事費(ショートカット費用を除く)の合計額六億円に対してさえ一七パーセントを占めることとなり、加治川中流部のショートカット区間を除く一連区間の緊急を要する被災箇所の築堤及び低水護岸の費用を大きく割くことになるのである。

昭和四一年度、昭和四二年度とも、ショートカット費用を除く本工事費のほとんどはショートカット区間以外の中流部全般の築堤(土羽堤)及び低水護岸築造に予定されていたものであるから、両年度の合計額に対して17.8パーセントもの比率を占める費用を下高関破堤地区及びこれと同様の危険を有する水衝部区間の土羽堤天端までのコンクリートブロック張りを施す用途に確保することは、当該区間の低水護岸及びコンクリートブロック張りを施す対象たる土羽堤自体の築造さえ危うくするものであり、仮に水衝部区間について目的を達し得ても、七・一七洪水による他の破堤箇所等においては築堤及び低水護岸の築造に支障を来すことは明らかである。かように、前記追加費用はその支出を到底期待し得ない高すぎる費用であり、またそのため多くの人手資材機材などを必要とし、その結果、加治川中流部の本来の改修の進捗を大きく阻害するものとなることは明白である。

以上のとおり、本件下高関地区破堤箇所には八・二八洪水当時堤防天端から1.2メートル下か以下にコンクリートブロック張りを施していたにもかかわらず、さらに天端まで同様コンクリートブロック張りを施すという特別な措置をすることは、他の危険な水衝部においては土羽堤がやつとであつたという状況を看過し、下高関地区にのみ目を奪われたもので、改修工事に着手してわずか一年足らずの八・二八洪水当時においては過大な要求であるというほかない。

第三河川管理の特殊性

一  計画高水流量について

河川管理とは河川法一条で規定しているように、河川について洪水、高潮等による災害の発生を防止し、その適正な利用と流水の正常な機能の維持を図るため、これを総合的に管理することであるが、河川工事は河川管理の重要な部分を占め、その実施はこれらの諸点を総合した基本的な計画に基づいて行わなければならないため、同法一六条において、河川管理者に対し工事実施基本計画の作成義務を課し、第一項でこの計画において定めるべき基本的事項の一つとして計画高水流量を規定し、また第三項では、しばしば災害の発生している地域については、災害発生の防止または軽減のための措置を計画上特に配慮するよう規定したのである。しかし、工事実施基本計画に定められた目標を達成するには、膨大な費用と時間と人員とが必要であり、一朝一夕で達成することは不可能である。

したがつて、河川管理者はこの目標を達成すべき努力義務はあるが、計画高水流量について、同計画が完成した場合はともかく、工事実施途中において法的規範性をもたせ、河川管理者において計画高水流量までの洪水について安全確保義務があるとするのは適切ではない。

第一審原告らは、計画高水流量算定の適正の有無が瑕疵の有無につながるとし、計画高水流量が多くの河川で歴史的に変更され、加治川においても昭和二七年計画の毎秒二、〇〇〇立方メートルが昭和四一年水害で毎秒三、〇〇〇立方メートルに変更されたことは、毎秒二、〇〇〇立方メートル計画の不当性を示すものであると主張する。

しかし、計画高水流量が多くの河川で歴史的に変更されているから、加治川における昭和二七年計画が一四年後に妥当性を持たないとの主張は誤りである。加治川における毎秒二、〇〇〇立方メートル計画は昭和二七年当時の確率で一〇〇分の一であり、これが他の多くの中小河川の五〇分の一に比べ極めて安全度の高い計画であつた(ちなみに、昭和四一年当時でも、他の多くの中小河川は五〇分の一程度の改修規模である。)。そして、昭和二七年以後一四年間既往最大洪水を上まわる規模の洪水が発生していないのであるから、七・一七洪水直前において、毎秒二、〇〇〇立方メートル計画の安全度評価はむしろあがつてこそいても低下してはいなかつたものであり、また加治川流域がその後特に都市化したという事実もないことから計画高水流量を変更する必要性もなかつたのである。七・一七洪水後計画高水流量は毎秒三、〇〇〇立方メートルに変更されたが、既往最大洪水を上まわる規模の洪水を経験した後、計画の見直しをするのは極めて当然のことである。

第一審原告らは、計画高水流量は予測可能の範囲内の数値であり、しかも、その数値は河川法に義務として定められた数値であり、その予測は規範性をもつと主張する。

しかし、計画高水流量は、前記のように、河川改修計画の目標となる基本量であつて、行政上の努力目標としての数値であり、これを定めたからといつて、直ちにこの計画高水流量までの安全を確保すべき責務が生ずるのではない。すなわち、工事実施基本計画に基づいて河川改修が完成した段階においては、当該河川は計画高水流量以下の設計外力の範囲内の外力に対して安全なものでなければならず、このような意味において、計画高水流量は規範性をもつといえようが、工事途中の期間においては、それが予測可能な数値であるとしても、あくまで努力目標にとどまるものであり、法的義務とはならないものである。

二  河川改修予算について

河川改修事業には莫大な費用を要するため、全国に存するすべての河川は洪水氾濫する危険性を内包したまま利用されているのが実情であるが、これらの各河川について、洪水氾濫を軽減するためそれぞれに定められている改修計画の将来目標、すなわち、大河川にあつては一〇〇年ないし二〇〇年に一回程度、中小河川にあつては三〇年ないし一〇〇年に一回程度、それぞれ発生する洪水による災害を防止するには、約一〇〇兆円を要するとみられるのである。そこで、当面の整備目標として、大河川にあつては戦後最大洪水に、本件加治川のような中小河川にあつては一時間五〇ミリメートルの降雨(五年ないし一〇年に一回発生する規模程度)に、それぞれ耐え得るような整備を行うこととしているが、これとても今後約三〇兆円を要すると予想されている。ちなみに、全国の河川の整備状況は、昭和五二年末において大河川ではおよそ五四パーセント、また中小河川では僅か一四パーセント程度に過ぎない。

いうまでもなく、國の総予算のうち治水投資に配分されるのは、政府が経済審議会の答申に基づいて策定した長期経済計画(現在のものは昭和五一年五月一日閣議決定された「昭和五〇年代前期経済計画」がそれである。)に定められた政策と投資計画を基にして、毎年度の予算として、國会の議決を経て決められているものであるが、右のとおり、治水投資に必要な費用はあまりにも大きいために、この年々の治水投資予算をもつてしても到底短期間に河川の整備を完了させることはできず、当面の整備目標を一〇〇パーセント達成するにも今後数十年の年月が必要である。

第一審原告らは、河川改修に大きな予算が注ぎこまれるべきであるとして、國家予算について、道路予算と河川予算とを比較し、河川管理者に法的責任があると主張する。しかし、国家予算において河川関係にどの程度の予算措置をするかということは、立法機関が政治的に判断することであつて、河川管理者において予算措置をする義務があるとするのは失当である。河川管理者としては、河川関係に配分された予算の範囲内で、どの河川にどの程度の安全性を備えるべきかについて、過去の災害の状況、河川流域の土地利用状況、河川の危険度等を総合的に勘案して決定を下すのみである。したがつて、国家予算全般について河川関係予算が道路関係予算より少ないことを河川管理者の義務違背に結びつけるのは相当でない。

のみならず、予算の配分にあたつては、その河川の洪水履歴、現況能力、実施の難易度(水利調整等)により厚薄がつけられるのであるが、特に加治川については、三十数箇所の農業取水堰があり、河川改修を行うには、これらの統合が不可欠であつたところ、その統合は県内の他河川に比べて遅れていたので、これを前提として着工すべき姫田川合流点下流部の改修の着工も遅れるという事情にあつたのである。また、全国の河川改修の進捗率は、昭和四八年当時で直轄河川が四〇パーセント、中小河川では二〇パーセント程度ということであり、昭和二七年当時では、常に河川の改修の大部分が日常の災害を防ぐのに追われていた事情があつた。このような中で、改修事業の多くが、災害の頻発する河川に配分されていたのはやむを得ないことだつたのである。

三  河川管理と道路管理との対比

河川管理の特殊性を道路の管理と対比して要約すると、次のとおりである。すなわち、

①  管理の対象は、道路では人・車という人為的なものであるために、その作用等の予測が比較的容易であるが、河川は流水という自然現象を対象とするためその作用等の予測は困難である。

②  危険回避手段として、道路では通行止め等の比較的簡易で緊急の手段があるが、河川にはそのような簡易なものはなく、結局、築堤等の治水施設を設置する以外にない。

③  道路はそれを設置することによつて危険も作り出されるものであるから、安全を確認し、予測される危険に対して一応の対応措置を講じたうえで管理を開始できるが、河川は本来的に危険を内包したまま管理を開始せざるを得ない。

④  しかも、河川は財政的、時間的、技術的、社会的諸制約下においても管理しなければならないという不可避性を有しているのに対し、道路は諸制約に応じて管理するか否かの選択が可能である。

⑤  河川管理はこのような諸制約下においていかにして最も効率的に水害を軽減させるかという課題にこたえるために実施されているのであるから、河川の管理の状況はこれらと強いかかわり合いをもつものである。

以上のとおりであるから、河川管理には自ら道路管理とは異る限界があり、その管理行為自体の効果として水害発生を根絶せしめることを望むことはできないのである。

第一審原告らは、河川管理と道路管理との間に質的差異はなく、洪水処理計画としても、流量調節法や被害軽減法も考えられており、ただ、現在の建設省の洪水処理計画の方針が洪水疏通法とダムを主体とした調節法のみによつていると主張する。

しかし、第一審原告らの指摘している洪水調節池、遊水池、霞堤等の効用は、洪水を一時滞留させ、下流に流下する洪水量を一時的に減少させるものであつて、道路の危険回避手段のように交通を完全に遮断させるような危険回避手段とは根本的に異るものである。なお、建設省としては洪水防禦対策として、第一審原告らの主張する方式以外に霞堤方式、越水堤方式、遊水池方式等を実施している。ただ、加治川においてこれらの方式を採用しなかつたのは、加治川の流域、地形の特性、土地利用の状況からみて不可能であると判断したからである。

第三  証拠の関係〈省略〉

理由

第一  当事者双方の主張に対する当裁判所の判断の順序

加治川が北蒲原一帯の穀倉地帯を潤す治水上利水上極めて重要な河川であり、河川法上二級河川の指定を受けていること、新潟県知事がなしている加治川の管理は第一審被告國の機関委任事務としての性格を有するものであること、第一審被告県が同法五九条等の規定により加治川について所定の管理費用を負担していることは、いずれも当事者間に争いがない。

さて、当事者双方の本件訴訟における主張は多岐にわたり、これに関する証拠も数多く援用されているが、本訴請求は、要するに、加治川が貫流する新潟県新発田市、同県北蒲原郡及び同県豊栄市の住民である(またはその被承継人がその住民であつた)第一審原告らが昭和四二年八月二八日、二九日の両日に発生した加治川水害で、向中条、西名柄及び下高関地区の各堤防が破堤したことにより損害を被つたものであるが、その破堤の原因は加治川の堤防の設置又は管理を含めた河川の管理に瑕疵があつたことによるものであるから、加治川の河川の管理の主体である被告國及びその管理費用の負担者である被告県に対し、国家賠償法二条、三条に基づき損害賠償を求めるというのである。

そこで、本件においては、まず同法二条の適用が問題となるのであるが、同条一項にいう営造物の設置又は管理に瑕疵があつたとみられるかどうかは、当該営造物の構造、用法、場所的環境及び利用状況等諸般の事情を綜合考慮して具体的、個別的に判断すべきものであると解するのが相当であり(最高裁判所昭和五三年七月四日第三小法廷判決・民集三二巻五号八〇九頁)、したがつて、本件においては、まず、前記三地区の堤防について具体的、個別的に設置又は管理の瑕疵の有無に関する諸般の事情を調べ、これに基づいた判断をすることを主眼とし、当事者双方の展開する一般論に対する判断は、本件の争点について必要な限度に止めることとする。そして、右三堤防は、それぞれに所在位置、破堤の経過及び原因が異るので、判断の順序としては、まず、八・二八水害により右各堤防の破堤がどのような経過及び態様で推移したかを検討し、次にその破堤原因が何であるかを調べ、しかる後にその破堤原因が河川管理施設である堤防、護岸及び河川の設置又は管理の瑕疵によるものであるかどうかという順序で判断を進めることとする。

第二  向中条仮堤防の破堤

一  破堤の経過と態様

〈証拠〉を綜合すれば、次の事実が認められる。

(一)  八月二六日から八月二八日午前中までの降雨状況

新潟地方気象台の降雨統計によれば、新発田市方面において八月二六日に二七ミリ、翌八月二七日には三八ミリの降雨があつた(但し、新潟県新発田土木事務所の降雨統計では、同二七日の降雨量は35.2ミリである。)。

次に、同新発田土木事務所における降雨記録によれば、八月二八日午前五時頃から降り始めた雨は、午前一二時までに55.7ミリという降雨を記録していた(以下に示す降雨量は同土木事務所の降雨記録であるが、地理的関係からみて、同仮堤防付近の降雨の状況は同土木事務所の記録にほぼ近いものと推認される。)。

(二)  八月二八日午後一時頃から午後二時頃まで

八月二八日午後一時頃加治川消防団の向中条地区団員と付近住民は早朝からの降雨による加治川の増水を心配して、仮堤防付近に集つた。その頃、仮堤防における加治川の水位は仮堤防の鋼矢板の上端を若干越えている程度であつたのに、仮堤防の裏法は中野長助宅前と乙第三号証の一二の図面の「4とハ」付近(以下、単に「4とハ」という。)の各法尻が軟弱化しており、場所によつては、歩くと膝位まで入つてしまうところがあつた。右軟弱化のみられた裏法尻は、上、下流にわたつて、それぞれ一〇メートル前後に達していた。そこで、加治川村消防団第三分団長日水昭二は消防団員や住民を指揮して、右軟弱化した裏法尻部分を補強するための水防作業を始めた。その作業は法尻に三ないし四メートルの杭を打ち、杭と杭との間に長木をわたし、これを支えとして、土のうを積み上げ、裏法の崩壊を防止しようとするものであつたが、杭を打込んでもなかなか固定せず、一時間程して漸く、二分の一ほどの杭打ち作業が出来たにすぎなかつた。また、その頃は、まだ水防小屋に麻袋その他の水防資材が十分整つていなかつたので日水分団長は村役場に対し堤防への雨水及び河水の浸透を防止するためのビニールシート、麻袋の手配を要請した。その後、午後二時頃になつて、一八ミリ(時間雨量、以下同様)の降雨があり、加治川の水位も仮堤防表法の蛇籠の半分位まで増水した。そして、中野忠太宅前付近の裏法尻が約一〇メートルにわたつてゆるんできたので同所にも同様の杭打ち、土のう積みの作業が行われた。

(三)  同日午後三時頃から午後六時頃まで

その後降雨は一段と激しくなり、午後三時には三七ミリ、午後四時には45.2ミリを記録する集中豪雨が続いたため、軟弱化していた前記三か所の裏法尻のゆるみは急速に拡大していつた。その頃には作業人員も増え、約五、六〇人が土のう作りと土のう積み作業に従事し、杭打ち作業も鋭意継続されたが、土のうを積んだ箇所はある程度押えが利いたが、その上部あるいは左右が次にはゆるむという状態になり、土のう積み作業は仮堤防のゆるみを追いかけるようにして続けられた。他方、溢水防止の準備として、旧堤と仮堤の下流接合部では麻袋積み作業も行われた。しかし、午後五時頃から午後六時頃にかけて、中野長助宅付近の裏法尻の杭が押し流されるという事態がおき、やがて約一〇メートルにわたつて、同所に崩落現象(いわゆる裏落ち)が生じた。そのため、作業に当つた人達は急拠裏落ちの箇所に土のう積みを集中して行つたが、土のうを積むと崩落は一時的にとまつたが、その上部の裏法から水が湧き、このようにして崩落現象は徐々に上部の天端へ向つて拡大していつた。

午後六時頃になると、自衛隊員も出動し「4とハ」の裏法付近の土のう積み等の作業を担当し、地元の消防団員、住民らは中野長助宅前付近から中野忠太宅前付近までの裏法において水防活動を展開した。しかし、裏法面の崩落はやがて中野忠太宅前付近でも発生し、これを防ぐため裏法面へビニールを張り、その上に土のうを積むという作業が休みなく続けられたが、崩落現象はやまず、上部、左右に拡大していき、土のうもこれに並行して次第に高く積まれていつた。

また、午後五時頃から日没にかけて、河水の浸透を防止するため仮堤防の蛇籠上端から表法肩までにビニール・シートを張る作業が行われ、同作業は仮堤防の約三分の二ないし四分の三の区間にわたつて実施された。そして、ビニール・シートは表法肩の天端上で麻袋によつて固定された。そのため、麻袋は天端上にかなり積まれた。

(四)  同日午後六時頃から午後八時頃まで

午後六時頃加治川の水位は仮堤防の付近で蛇籠がかくれる位、すなわち、天端下一メートルまでに達したが、その後徐々に下つた。また、降雨も午後六時から午後七時にかけては併せて三ミリ程度で小康を保つた。その頃には、水防作業をしていた人達は交替で夕食をとつた。だが、裏法尻の軟弱化は依然やまず、午後八時頃には降雨量も八ミリと増加してきた。

(五)  同日午後九時頃から午後一一時頃まで

降雨は午後九時に一二ミリ、午後一〇時に五ミリ、午後一一時に一六ミリと記録され、午後一一時頃から降雨は激しくなつてきた。また、加治川の水位も午後一〇時頃から上昇の勢いを示した。そして、仮堤防の裏法の崩落現象も進み、午後一一時頃には、遂に中野長助宅前付近の裏法が巾三メートルないし四メートルにわたつて天端の一部が欠落するという事態が発生し、それが破堤と誤認されて、「切れたぞ。」という声が上り、かなりの作業員が現場を去つて避難してしまつた。しかし、事態が正しく認識されてからは、再び土のう積み作業が崩落箇所を中心にして行われた。

(六)  同日午後一一時頃から破堤まで

降雨は午後一一時頃から激しさを増し、その後翌二九日午前〇時には一四ミリ、午前一時には三〇ミリの集中豪雨が記録された。このような悪条件のもとで、水防作業を続ける人達も少なくなつたが、それでも中野長助宅前付近の裏法には、約二〇名の人達が土のう積みを続けていた。そして、裏法が崩落するため土のうは天端から投げられるという状況になり、やがて懸命の努力にもかかわらず天端の欠け込みが拡大して、破堤時の午前一時頃には同所の天端は約半分がほぼ半円形に消失した。二九日午前〇時半頃、宮島消防団長は、右仮堤防の状況を見、かつ水位が急速に増水してきたので待避命令を出した。しかし、日水分団長ほか一〇名程度の者は、依然残つて右中野長助宅付近の裏法の崩落を止めるため天端から土のうを投げ込むなどして水防活動を続けた。しかし、天端の欠け込みに伴つて、同所の天端がやや沈下し、さらに午前一時頃には、同所の表法肩辺りから天端を抜けて裏法に通ずる水路(いわゆる“もぐら穴”)ができたので、日水分団長は破堤の危険を感知して「逃げろ」と叫んで、全員を裏法から退避させた。右指示後間もなくして同所仮堤防の天端は一メートルないし二メートルの巾で流失し、同仮堤防は瞬時にして破堤した。破堤時の水位はほぼ満水に近くなつていたが、右破堤箇所以外の仮堤防の天端は溢水する程度には至らず、比較的しつかりしていたことからして、天端より僅かながら下位にあつたと推定されるものである。

以上のように認められ、前記証言及び供述中、右認定に抵触する部分は措信できない。また原審における証人吉川秀夫の証言及び同人の鑑定の結果を綜合すれば、昭和四二年八月二九日午前一時頃における向中条地区仮堤防の破堤箇所付近(堤高は14.35メートルとみる。)の水位は14.5メートルと推測されるというのであるが、右鑑定及び同証言も認めているように、右数値は岡田測水所の水位記録、新潟県河川課加治川流出解析報告書等限られた資料をもとに水文学的分析の手法により解析して得られた概数値ないし推定値であるから、同仮堤防の破堤前後の加治川の水位及びその破堤の経過ならびに態様が水防活動に従事していた前掲各証人の証言及び供述によつて前記のとおり認定しうる本件においては、前記吉川証人の証言及び同人の鑑定の結果に基づいて、右破堤時というごく限られた時刻に生起した加治川の水位及びこれによつて溢水があつたかどうかという過去の一回的事実の存否をたやすく認定するのは相当ではないというべきである。

さらに、原審鑑定人三木三五郎の鑑定の結果によれば、「八・二八洪水時における浸透状況としては、洪水による浸潤線が裏法尻まで達するのに要した時間は、水位が上昇し始めてから一〇ないし一五時間である。ただし、降雨の影響で裏法尻がそれより早く飽和状態となることはある。また浸潤線が裏法尻まで浸透しても、直ちに法尻から崩壊が始まるのではなく、さらに浸透が継続すると、それから二、三時間して徐々に崩壊が起るようになる。しかし、浸透水だけで小段の形がなくなる程度まで崩壊が進むにはさらに多大の時間を要する。本件仮堤防の破堤は、浸潤線が裏法尻に達して徐々に起つたものとは考えられず、堤頂を水が越流した時期に急速に生じたものと判断される。なお、浸潤線の到達時間の算定につきストロールの公式を用いるのは無意味である。」というのであるが、成立に争いのない乙第一〇号証の一〇及び同証言によれば、右鑑定は、まず高さ3.6メートル、幅員一メートル、長さ一二メートルの鉄板でつくつた実験槽を作り、ここに向中条仮堤防の築堤材料と同一の材料を用いて高さや敷巾を二分の一にした実験堤をつくり、計四回の浸透実験(そのうち一回は降雨条件なし。他の三回は降雨と洪水の両条件をそれぞれ変えた。)を行い、これによつて右結論に到達したものであることが認められる。

しかし、右実験が模型によるものであるだけに、これに基づく鑑定の結果を現実の堤防の浸透の状況を推測する証拠とするには慎重を要するが、それは暫らく措くとして、向中条仮堤防の裏法尻の軟弱化現象及びこれに続く崩落現象はその要因として降雨による影響が相当あつたと推測されること前記認定のとおりである。したがつて、右実験においては、右降雨の状況が実験の重要な因子として考慮されなければならないところ、前顕乙第一〇号証の一〇及び右三木鑑定の結果によれば、実際の降雨条件に近い第三回(B型降雨)及び第四回(C型降雨)の浸透実験においては、いずれも八月二八日前の二日間における降雨条件(すなわち前記のとおり八月二六日には二七ミリ、翌八月二七日には三八ミリの各降雨のあつたこと)が実験の際に考慮された形跡のないことが認められる(弁論の全趣旨によつて真正に成立したと認められる乙第一〇号証の三の一八及び原審証人三木三五郎の証言ならびに弁論の全趣旨を綜合すれば、右降雨条件は第一審被告県の職員から提供された資料である「8.28出水時の新発田市降雨量(時間雨量)」に基づいてなされたものであることが認められるところ、同資料には、八月二八日午前五時より翌八月二九日午前八時までの降雨量が記されているにすぎないことが明らかである。)そうだとすれば、右浸透実験は、実験の前提である降雨条件について無視してはならないと考えられる八月二六日、二七日の降雨の状況を看過したものであるといわなければならない(同鑑定も降雨の影響で裏法尻がそれより早く飽和状態となることがあることを指摘している。)から、右実験を基礎としてなされた鑑定の結果を本件向中条仮堤防の降雨、洪水による浸透破堤の有無ないし浸透の機序を認定する証拠とすることは相当でないというべきである。他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

二  破堤原因と管理の瑕疵について

第一審原告らは、向中条仮堤防の破堤は、前記破堤経過にみられるように、河水の浸透による裏法崩れの結果によるものであり、さらに、右河水の浸透を許したのは、同仮堤防の築堤場所、築堤材料、構造、堤防断面等が劣悪なものであつたためであると主張する。

(一)  浸透破堤か溢水破堤か

そこで、まず、前記認定の仮堤防破堤の経過に徴して、同仮堤防の破堤が第一審原告ら主張の河水の浸透によるものであるかどうかについて考えてみるのに、なるほど向中条仮堤防の裏法の「4とハ」及び中野長助宅前各法尻の一部が八月二八日午後一時頃すでに膝が没するほどに軟弱化しており、その後の杭打ち作業が難行した状況に照らすと、裏法尻の下部の地盤にも相当のゆるみがあつたことが認められるが、それが基礎漏水によるものであるとの的確な証拠はない。かえつて、堤体地盤からの基礎漏水であるならば、浸透水の湧出現象がみられるのに、本件においては、このような現象は認められない(なお、当審証人吉備津操、同中野殖の各証言中には、浸透水の湧出現象があつたかのような部分がみられるが、それらはいずれも八月二八日午後九時頃の裏法尻の状況について供述したものであるから右認定の妨げとはならない。)。また、新潟地方気象台の降雨統計では、新発田市方面において、八月二六日に二七ミリ、翌八月二七日に三八ミリの降雨があつたこと、そのうえ、新発田土木事務所降雨記録では、八月二八日午前中に降つた雨はすでに五六ミリに達していたこと前記のとおりであるから、八月二八日午後一時頃にはすでに仮堤防上に約一二〇ミリ程度の雨が降つていたことが推認されるのであり、そうだとすれば、その頃には二日有余にわたつた降雨が堤体を通して偶々雨水の溜りやすい前記二か所の裏法尻に集中して地盤の軟弱化を招いていたということも考えられないわけではないのである。したがつて、八月二八日午後一時頃に仮堤防の裏法尻にみられた軟弱化現象が第一審原告ら主張の基礎漏水によるものであると認めることはできない。

むしろ、前記認定の破堤経過に徴してみると、向中条地区の仮堤防は降雨による影響をかなりの程度うけたことがその降雨の状況及びその後に起きた裏法尻の崩落現象によつて窺われる。そして、これに加えて加治川の河水は、八月二八日午後一時頃からすでに仮堤防の鋼矢板の上端を越え、その後は一時的に減水があつたものの破堤まで約一二時間にわたり、洪水現象が継続していたこと前記のとおりであるから、仮堤防の堤体に加治川の河水が時間の経過とともに浸透していつたであろうことが推測されるのであり、その後、河水が天端近くまで増水を続けたことが終局的に仮堤防の破堤を招いたと認められるのである。

第一審被告らは、右仮堤防の破堤は溢水破堤であると主張するが、前記認定の破堤経過から明らかなように、仮堤防は裏法が崩落した前記中野長助宅付近の部分のみに河水が溢流したのであり、しかもその溢流はごく短時間であり、他の仮堤防の天端には溢流がなかつたのであるから、典型的な意味での溢水破堤といわれる場合には当らないと認めるのが相当である(ちなみに、原審証人堀雅及び当審証人中野瑛吉の証言を綜合すれば、前年の七・一七水害において、向中条地区の堤防が溢水破堤したがその際には二〇分ないし三〇分ほど溢水したと感じられるほどかなり長い時間にわたつて、しかも相当広範囲にわたつて溢水現象があつたことが認められる。)。

以上認定したところによれば、向中条の仮堤防の破堤は雨水及び河水の浸透により裏法が崩落した後、崩落により沈下した堤防の一部に河水が流れ込んで生じた浸透と溢水の競合による破堤と認めるのが相当である。したがつて、右認定と異なる破堤原因を前提とする当事者双方の主張は採用しない。

(二)  仮堤防の設置とその安全性の程度について

次に、仮堤防の築堤場所、築堤材料、構造、堤防断面等が劣悪なものであり、通常の安全性を欠如していたかどうかについて検討する。

第一審原告らは、仮堤防も河川法上の堤防に含まれるから築堤材料、構造の安全性についての義務も本堤防との間に差異はなく、ただ、仮堤防は公共土木施設災害復旧事業費国庫負担法(以下、負担法という。)施行令上その工事の規模(例えば、堤防高等)において劣位的であるにすぎないと主張するのに対し、第一審被告らは、仮堤防は本堤防を完成するまでの応急対策として緊急に施行される仮施設であつて、その規模、構造については、仮堤防の緊急性、背後地の重要性および設置期間等を考慮して施行されるものであるから、計画対象水位、堤体の構造等において本堤防との間に差異のあるのは当然であり、河川法一三条の適用についても考慮すべき水位、流量および自重、水圧、予想される荷重は本堤防の場合と差異があり、仮堤防としての効用を十分に果しうる構造をとれば、同条に適合すると主張するので、この点についてまず判断する。

向中条の旧堤防が昭和四一年七月一七日の洪水により破堤した後、同月二二日第一次の仮締切工事が急拠行われ、これに続いて同年七月三一日より築堤工事を開始し、同年八月二〇日完成されたのが本件の仮堤防であること、同仮堤防は負担法に基づく災害復旧事業として施行された応急工事で、本堤防が完成されるまでの間の暫定的な仮堤防として設置されたものであることは原判決二八九頁ないし二九一頁の「一 向中条、西名柄両地区の第一次締切工事及び下高関地区の仮締切工事及び二 向中条、西名柄両地区の仮堤防工事の(一)」に記載のとおりであるから、これを引用する。

そこで次に、仮堤防の安全性の程度について考えてみるのに、河川法一三条は「河川管理施設又は第二六条の許可を受けて設置される工作物は水位、流量、地形、地質その他の河川の状況及び自重、水圧その他の予想される荷重を考慮した安全な構造でなければならない。」(一項)、「河川管理施設又は第二六条の許可を受けて設置される工作物のうち、ダム、堤防その他の主要なものの構造について河川管理上必要とされる技術的水準は、政令で定める。」(二項)と定めているのであつて、河川管理施設である堤防について、相当高度の安全基準を要求しているものと解するのが相当である。

しかしながら、仮堤防は本堤防が完成するまでの間、背後地の安全を守るため比較的短時間にわたつて応急的に設置されるものである。しかるにもし同条が規定するような予想されうる荷重を考慮した安全な構造の仮堤防を築造しなければならないとすれば、本件においては、破堤前の旧堤防が既往最大規模の七・一七洪水により流失したのち、同洪水と同程度以上の水害に耐えうる河川工事を施行するため仮堤防が設置されたこと後記のとおりであるから、仮堤防設置の時点において七・一七程度の規模の洪水にも耐えうるような安全な構造のものを築造しなければならないことになる。しかし、それでは、緊急に施行すべき仮堤防の設置の趣旨、目的に反し、却つて背後地の危険を招くことになる。したがつて、仮堤防については、相当の期間を費して、慎重に設計、施行すべき本堤防との間に差等が生ずることはやむを得ないところといわねばならない。また、仮堤防は工事期間中にのみ存するとはいえ在来堤防と同様の機能を果すことになるものであるから、その背後地の安全を守るうえで、在来堤防と同等の強度及び構造をもつように設計、築造されることが望ましいことはいうまでもない。しかし、在来堤防は、仮堤防設置の原因となつた災害によつては損傷をうけなかつた本堤防であり、しかも、本堤防として設計施行され、その後維持管理されてきたものであるから、一定の時間的、場所的、人的、物的、財政的諸制約のもとで、在来堤防に匹敵する安全性を有する仮堤防を築造することもまた困難であることは見易いところといわねばならない。

したがつて、仮堤防については河川法一三条が予定している一定の技術的水準に基づく安全な構造を有するものとして設置されることを期待するのは無理なことというべきであるから、仮堤防については、その設置の目的、経緯、存置期間等を綜合的に検討し、かつ、当時における仮堤防の設計施工の一般的水準及び社会通念等を参照しながら、同条の法意に沿うよう仮堤防として安全な構造のものを設置すれば足りると解するのが相当である。

そこで、本件仮堤防が、右の観点よりみて、その安全性が相当として是認しうべきものであるかどうかについて検討する。

(1) 向中条仮堤防設置の経緯

七・一七洪水後、第一審被告新潟県土木部は、同洪水が、在来河道の流下能力の限度をはるかに越える規模のものであつて、在来堤防の部分的な改築、補強等によつては将来この程度の規模の洪水に対処することは不可能であり、加治川全般にわたつて河巾を広げ、河床を下げて河積を拡大し、ことに向中条、西名柄地区の大湾曲部についてはショートカットする等の抜本的対策をたてる必要があるとの判断に達した。そして、右ショートカット工事を実施するためには、新河道予定地の真中にあたる四四戸(一五四棟)の西名柄部落を早急に移転したうえで、新河道の掘削と新堤防の築造を行わねばならず、その工事を行うには約二年の工期が必要であると見込まれた。そこで、県土木部はこの期間(昭和四一年出水期の後半及び昭和四二年の出水期)の出水に対処することを目的として、第一次締切(同仮締切は、平水位上0.7メートルと低く、小出水でも溢水のおそれがあつた。)の背後に仮堤防を設けることとした。以上の事実は、原判決二九一頁ないし二九三頁の「(二) 仮堤防設置の理由」に記載のとおりであるから、これを引用する。

(2) 仮堤防の設計及び施工

仮堤防の設計は、次のとおりであり、ほぼそのとおり施工された。すなわち、

計画対象水位

計画対象水位を旧堤防もしくは付近在来堤防の天端よりほぼ一メートル下りとしたこと及びその判断に至つた経緯は原判決二九三頁ないし二九六頁の「(1) 仮堤防の設計にあたつて対象とした水位=計画対象水位」に記載のとおりであるから、これを引用する。もつとも、この場合、計画対象水位の定めはかなり便宜的なものであり、要するに旧堤防もしくは在来堤防の天端と同じ堤高としたことに設計施工の重点がおかれたことが原審及び当審証人小林一三の証言によつて認められる。

築堤材料

仮堤防の築堤材料として蓮潟の砂丘砂を採用したこと、それは仮堤防の施工開始時期が出水期間中であるので緊急に大量の盛土(約二万三、〇〇〇立方メートル)を要し、かつ、この盛土を採取するのに蓮潟以外に適当な場所がなかつたためであることは、原判決二九七頁、二九八頁の「(2) 築堤材料」に記載のとおりであるから、これを引用する。

計画断面の決定

仮堤防の敷巾を約一五メートルとし、法勾配を1対1.5(水平距離1.5に対し垂直距離1)とし、法面の安定のため裏小段を設けたこと、計画対象水位上に約一メートルの余盛を実施したこと、堤防脚部の洗掘防止のため鋼矢板を打ち込み、その前面には第一次仮締切との間を麻袋で充填して根固めとしたこと、鋼矢板より上部の表法覆に計画対象水位まで蛇籠を施して流水による表法の流失を防ぐことにしたこと、また、法面を保護するため、山土で厚さ三〇センチの被覆土を施したこと、以上の事実は原判決二九八頁ないし三〇〇頁の「(3) 計画断面の決定」に記載のとおりである(但し、二九九頁の二行目の「一四時」とあるのを「一一時」と改める。)から、これを引用する。そして、右仮堤防の天端が流失した旧堤防とほぼ同高であり、また上下流在来堤防ともほぼ同高であることは当事者間に争いがない。

法線

堤防法線は、流出した旧堤防地盤に深掘れを生じたため、これを避けて月の輪型にしたこと、その法線が原判決一七二頁の次に添付の図2―12(A)のとおりであることは、原判決三〇〇頁の「(4) 法線」に記載のとおりであるから、これを引用する。

(3) 仮堤防の構造の安全性について

築堤材料について

第一審原告らは、盛土に浜砂を単一使用したのは、仮堤防の安定性に配慮を欠くものであると主張する。なるほど、堤防の築堤材料としては不浸透性のものが良く、粘土と砂との割合が二対一もしくは三対一、または、粘土に砂一割ないし二割のものが河川工学上良いとされていることがいずれも成立に争いのない乙第五号証の二ないし四によつて認められるから、砂の単一使用が望ましいものでないことは第一審原告ら主張のとおりである。しかしながら、右証拠と成立に争いのない乙第五号証の一及び二一によれば、築堤には極めて多量の土砂を必要とし、その築堤材料として右のような理想的な成分を有するものを手当することは、事実上困難な場合が多く、また、河川工事の経済性という観点からも不可能に近いため、近傍から多量に得られる土砂を築堤材料として選定使用し、その土質に適合する堤防断面と構造を考慮するのが河川工学の通説的見解となつており、かつ河川工事の実態であることが認められる。

そして、前顕乙第一〇号証の一〇のうちの粒度試験の記載と前記三木証言及び同人の鑑定によれば、右仮堤防の築堤材料は九二ないし九三パーセントの砂分を含み、かつ、粒径がよくそろつた砂丘砂であつて、その締固め度は、概ね乾燥密度で1.55t/m3前後、現場透水係数は6×10-3cm/sec程度であるが、かなりよく締つており、とくに透水性が大きい状態ではないこと(なお、仮堤防に用いられる砂丘砂は粒径がよく揃つた細砂であるが、その強さや透水性は締め固度に影響されることが大きいこと)、右砂丘砂は築堤材料として利用できないものではないことが認められ、原審における証人湯浅欽史の証言及び同鑑定人の鑑定結果のうち、右認定に抵触する部分は、前記証拠に照らして措信できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。また、前顕乙第一〇号証の一〇のうち粒度試験の記載といずれも成立に争いのない乙第一二号証の①ないし⑰、同号証の二の①ないし③、同号証の三の①ないし、同号証の四の①ないし、同号証の五の①ないし⑫とを綜合すれば、第一審被告ら主張の全國事例調査により選択された仮堤防一九事例に比べてみても、向中条仮堤防の盛土が築堤材料として特に劣るものであつたとは認められない。もつとも、本件仮堤防の裏法が降雨と河水の浸透により崩落現象を起したことは、前記のとおりであり、これに対して、仮堤防に連なる在来堤防がそのような損傷を蒙つたことについてはこれを認めるに足りる証拠がなく、また前記湯浅証人の証言によれば、同仮堤防の盛土は在来堤防のそれと比較すると透水性において著るしい差(計算上約一〇〇倍)のあることが窺われるから、同仮堤防が在来堤防に比して脆弱であつたことは否み難いところであるといわねばならない。しかし、仮堤防の盛土と在来堤防のそれとを比較することは、仮堤防と在来堤防との間に生ずる当然の格差を度外視するものであつて相当ではない。

右によれば、同仮堤防に砂丘砂を単一使用したことが築堤の安全性に対する配慮を欠くものであるとの第一審原告らの主張は採用することができない。

断面形状と構造について

第一審原告らは、本件築堤工事には、砂の単一使用に適合した安全な断面形状と構造を有する堤防に設計施行しなかつた瑕疵があつたと主張し、裏法尻のフィルター(水抜き)を設けなかつたこと、裏法が急勾配で、敷巾も狭かつたこと、表法面に堤体への浸透を妨げる止水材料を使用していなかつたこと及び使用された被覆土が適当でなかつたことを挙げているので、次に、これらの点について検討する。

(a) フィルターについて

本件仮堤防にフィルター(水抜き)が設置されなかつたことは当事者間に争いがない。第一審原告らは、0.28ミリメートル程度の粒径のよくそろつた砂を使用する場合は定常状態で設計し、浸潤線が裏法を切る点以下を保護するのが常識で、その方法としては通常フィルターを設置すべきであると主張し、甲第三七号証中には右主張に沿う記述部分のあることが認められる。しかし、右証拠だけでは、右主張を肯認するに足りず、また、本件仮堤防設置の当時において、かような河川工事の方法が一般的であつたとの証拠も見当らないから、フィルターを設置しない前記仮堤防が安全性を欠くものであると断定することはできない。

(b) 裏法勾配について

次に、第一審原告らは、本件のような砂質堤防の場合、裏法勾配は一対三(三割)程度であるべきであるのに、本件では僅か1対1.5(一割五分)という急勾配に設計したので極めて危険なものであると主張し、前顕甲第三七号証中には「本件仮堤防の裏法勾配は類がなく急で、浸透水に対して一見して不安定であることは土木屋の常識からみて明らかである。」旨の記述部分がある。また、成立に争いのない乙第五号証の六によれば、建設技官福岡正己ほか二名が昭和二八年頃直轄河川堤防六三四例につき現況を調査した結果、右事例中の約三分の一の裏法勾配が二割あるいは二割以下で占められており、2.5割から3.4割までのものが約二分の一を占めていることが認められ、また、原審証人小口秀次の証言によれば、一般河川の裏法勾配でも二割ないし三割のものが多数であつたことが認められる。

しかし、本件災害の発生した当時においては、裏法勾配についての法的規制はなかつたのみでなく(現在では、河川管理施設等構造令二二条一項によつて特別の場合を除き、盛土による堤防の法勾配は五〇パーセント以下とする旨定められている。)、前顕乙第五号証の六によれば、直轄河川でさえも二割未満の勾配の堤防のあつたことが認められる。そして、成立に争いのない甲第七号証、前顕乙第三号証の一三、同第五号証の三、及び原審証人小口秀次の証言、当審証人小林一三の証言を綜合すれば、本件仮堤防に接続する在来堤防の裏法尻の勾配は一割五分のところが多かつたこと、仮堤防設置当時、一割五分の裏法勾配が異常であるとの河川工学上の認識は一般的に存在しなかつたこと、本件仮堤防には裏法面の安全を図るために裏小段が設けられたこと、なお、裏小段を設けない場合の裏法勾配は一割九分であること(甲七号証の裏法勾配計算図参照)、また、洪水継続時間は七・一七洪水を除く過去の洪水記録等からみて、約一一時間と想定のうえ設計され、これに耐えるには一割五分の勾配で十分であると考えられたことが認められる。

しかも、本件仮堤防は前記のとおり出水期間中に設置しなければならないところ、もし、同仮堤防の裏法勾配を裏小段を設けて二割以上に緩やかにしなければならないとすれば、その敷巾を相当程度延長し、かつまた法線を中野長助宅及び中野忠太宅の敷地内にまで後退しなければならないであろうことが前顕乙第三号証の一二、一三によつて認められる。

これらの事情を綜合勘案すれば、本件仮堤防の裏法勾配はより安全な堤防を設置するという観点から二割以上とすることが望ましかつたとはいえるが、一割五分の勾配(裏小段のない場合一割九分)をもつて設計施工された本件仮堤防が仮堤防としての安全性を欠くものとまでは断定しがたく、また、より安全性の高い勾配を採用するについて事実上の障害もあつたことが認められるから、この点に関する第一審原告らの主張も採用できない。

(c) 敷巾について

第一審原告らは、統計的にみると、本件仮堤防の敷巾は三〇メートルないし三六メートル必要であり、在来堤防との透水係数の比較からすると、一、五五〇メートルの敷巾がなければならないのに、15.5メートルであり、明らかに安全性を欠いていると主張する。

前顕乙第五号証の六によれば、前記福岡正己らの調査では、堤防の直高五メートルの直轄河川については、堤防敷が三〇メートルないし三五メートルのものが五一例中三七例あつて二〇メートル以下のものは一例にすぎないことが認められるが、右は直轄河川であつて、本件のような中小河川の場合と比較することは必ずしも適当でない。また、県土木部が敷巾を15.5メートルと定めたのは、裏地盤高、土質、洪水の継続予想に基づくものであつたこと前記(2)の「計画断面の決定」で認定したとおりである。さらに、前顕乙第三号証の一二、一三及び当審証人小林一三の証言を綜合すれば、七・一七洪水により向中条の破堤箇所には平水位約七メートルの深掘れが生じたため仮堤防を旧堤防法線に沿つて設置することは深掘箇所に高盛土をしなければならないことになるので不適当であり、したがつて、法線は右深掘箇所を避ける必要があつたこと、また、堤防の敷巾は第一審原告中野長助宅及び訴外中野忠太宅前までに限定する必要があつたことが認められる。

右によれば、前項で判示したとほぼ同様の理由で、本件仮堤防の敷巾が15.5メートルとして設計施工されたことは、必ずしも望ましいとはいえないが、いまだ安全性に欠けるとまでは認め難いといわねばならない。また、在来堤防の透水性との比較に基づく敷巾に関する第一審原告らの主張は現実性のない主張であるから、到底採用の限りではない。

(d) 表法面について

第一審原告らは、本件のような砂でできている仮堤防の表法面は洗掘防止のほか、できる限り堤体への浸透を妨げるための止水材料として、例えば、八・二八水害後の復旧堤防に使用したコンクリート張りなどを使用すべきであるのに、そのような配慮がなされていない旨主張する。これに対し、第一審被告らは、本件仮堤防は築堤材料の砂丘砂に適合した断面によつているので、表法面に止水材料を設ける必要はなく、また八・二八水害後の仮堤防に使用したコンクリートブロック張工はブロックを単に敷きならべたものであつて止水材料ではないうえ、右ブロックは、近傍で工事中の恒久対策において使用予定のものを一時使用したものであると主張する。そこで、考えるのに、一般に護岸は降雨及び流水等による法崩れ又は洗掘に対して有効であることが明らかであるが、これに止水効果を期待するためには法面にコンクリート構造又はこれに準ずる構造のもので覆う必要があるが、このような構造に表法面を設計施行するには、多大の費用を要することが明らかであるし、その設置期間が短い仮堤防の場合には特別の事情がなければ、設置することが適当であるとは考えられない。そして、本件においては、このような特別の事情を認めるに足りる証拠はない。また、八・二八水害後の仮堤防に施したブロックは止水の効用を有せず、また一時流用の資材である旨の第一審被告らの主張を覆すべき証拠もない。したがつて、第一審原告らのこの点に関する主張は採用できない。

(e) 被覆土について

第一審原告らは、本件仮堤防に使用された被覆土は雨にたたかれると容易に流動化しやすい性質を有し、適当でなかつたと主張する。そして、前記湯浅鑑定人は、「本件仮堤防の被覆土の約六〇パーセントは0.3ないし0.6mmの粒径のそろつた砂であり、約四〇パーセントは配合の良い粘土ないしシルトのmmオーダーの団粒からなつていること、しかし、この土は構造的にも二種の土が可視的な大きさでまじり合つたものとなつていて、特殊な肌ざわりを示すこと、したがつてマスとしては強度をもつたローム的挙動を示すが水に会うと団粒と砂とが分離しやすく、砂的な流動性を示すのではないかと推定される。」と鑑定している。

しかし、同鑑定人が被覆土として適当と考えるものが近傍から容易に得られるとは考えられないばかりでなく、原審証人小口秀次の証言によれば、本件仮堤防の被覆土は、これまでも被覆土として使用されてきた実績を有する五十公野もしくは茗荷谷の土であつたことが認められるから、同被覆土が使用されたからといつて、仮堤防の設計施工が直ちに安全性を欠いた被覆土によつたものであるとは認め難い。

なお、第一審原告らは、八・二八水害の約五か月前である昭和四二年四月一〇日頃、本件仮堤防の裏法尻に漏水がみられ、軟弱化し一部裏法が損傷する事態が発生したから、仮堤防の浸透に対する安全性はすでにその頃から失われていた旨主張し、原審における第一審原告中野長助本人尋問の結果(第二回)及びこれによつて昭和四二年四月二〇日向中条仮堤防の裏法尻の損傷を撮影した写真であることが認められる甲第四号証の一、二によれば、昭和四二年四月二〇日頃同人宅付近の向中条仮堤防の裏法尻に一箇所亀裂が生じたことが認められるが、右損傷の原因が漏水によるものであるとの同人の供述部分は、右写真からは漏水の形跡が看取できないこと及びこの点に関する同人の当審における供述が判然としないことに照らしてたやすく措信できず、却つて、右写真と原審証人小林一三の証言によれば、右損傷は付近農地復旧作業中のブルドーザーによつて裏法尻部分が一部削られたことにより生じた可能性も否定できないので、第一審原告らの右主張は採用することができない。

(4) 破堤経過からみた仮堤防の安全性

次に、前記仮堤防の破堤経過に徴して、果して本件仮堤防が仮堤防としての通常具備すべき安全性を有していたかどうかについて検討する。

本件仮堤防には、すでに八月二六日、二七日の両日に計約六五ミリの降雨があつたうえに、八月二八日午前中五六ミリの降雨があり、また午後一時頃から翌八月二九日午前一時頃までの一二時間に約二〇〇ミリの雨が降つたこと、ことに八月二八日午後三時頃には一時間に三七ミリ、午後四時頃には45.2ミリという豪雨が仮堤防に降りそそいだこと前記のとおりである。さらに、右降雨の規模につき、昭和四二年九月付の東京管区気象台新潟地方気象台作成の異常気象調査報告書(前顕乙第四号証の一)を参照してみると、「新潟県の北部、山形県の南西部に大雨が降つたが、降雨の中心域は胎内川、加治川、荒川の上、中流域であり、二八日明け方から二九日午前中にかけての約三〇時間降つた。場所的には昨年の七・一七水害とほぼ似ているが、強雨の集中度、規模において昨年をはるかに上廻つた。中心域(胎内川上流)では七〇〇ミリを越しており、四〇〇ミリ以上の雨域は東西四五キロメートル南北五五キロメートル位である。一日雨量又は時間雨量では新記録を観測した所が多い。降雨の中心においては長年の観測資料がないので統計的に処理できないが、中心域からやや離れている新発田で見ると次のとおりとなる。九時又は一〇時を日界とする二日連続雨量(九時又は一〇時をはさんで大雨が降つた場合、一日雨量ではその実体が現われないので、このような取り方をする。)の四〇〇年に一回という確率雨量が二五四ミリであるが、今回は三三八ミリで過去の記録を更新した。昨年の七・一七水害時では二九四ミリであるが二年つづいて四〇〇年雨量を越す大雨が降つたことになる。」というのである。これらの事実を綜合すれば、新発田に近い本件仮堤防付近に降つた雨量が極めて稀な異常豪雨であつたことが推測されるのである。

そして、右のような降雨に対して、堤防は通常どの程度の強度をもつているかについて考えてみるのに、当審証人小林一三の証言によれば、堤防の法面は時間雨量二〇ミリを越えると、法尻に雨裂が生じやすくなり、とくに新しい堤防にその傾向のあることが認められ、また前顕乙第五号証の二一(土質工学ハンドブック)によれば、普通の土砂堤防では、堤体表面から浸透した雨水は徐々に内部に浸入して、土の単位体積重量を増加させ、また同時に土の剪断強さを低下させること、そのため河川水位がそれほど上昇していないのにもかかわらず、累加雨量二〇〇ミリないし三〇〇ミリ以上の集中豪雨があると、法面崩壊する例がしばしば起ることが認められる。

次に、洪水の規模について調べてみるのに、本件仮堤防の洪水継続時間は前記のとおり設計段階では約一一時間と想定されていたのに、破堤時までには約一二時間も継続していたこと、また、洪水位も破堤時頃には、ほぼ、満水の状態にあつたこと前記のとおりである。

このようにみてくると、本件仮堤防が降雨のため、その後河水の浸透も加わつて裏法面の崩落現象を起し、遂にはほぼ満水になつた加治川の流水の荷重に耐えられずに破堤したことは、本件仮堤防が当時の河川工事の一般的水準及び社会通念上具備すべき通常の安全性を欠如していたことによるものであるとみるよりは、右降雨、洪水の規模が異常であつて、前記のように制約された諸条件のもとで築堤された仮堤防の耐えうる強度を越えていたためであると認めるのが相当である。

そうだとすれば、向中条仮堤防の破堤が第一審被告国らの管理の瑕疵によるものであるとの第一審原告らの主張は採用することができないものといわねばならない。なお、第一審原告らは向中条仮堤防について、第一審被告らが主張するような溢水破堤があつたことを前提として、右仮堤防については、天端及び堤体全体が水防活動を十分に保証するものでなければならないとか、あるいは河道の湾曲外延部に位置するから、局部的に堤防を近傍の堤防より例えば一メートル程高くするなどして、七・一七洪水と同規模あるいはこれを上回る洪水があつても破堤しない堤高を備える堤防を築くべきであつたと主張する。しかし、前記認定の向中条仮堤防の破堤の経過に照らせば、同仮堤防が、仮堤防としての制約があつたために、在来堤防と同様の強度がなく、天端、堤体が降雨、洪水に脆弱であつたことは否み難いが、同仮堤防が溢水防止の水防活動をすることができない構造であつたとの事実は認めることができない。また、仮堤防の堤防の高さを、第一審原告ら主張のように在来堤防以上の堤高にするとすれば、同部分の断面、構造を堤高に適合するものとしなければならなくなる(そうしなければ、堤高の故に、却つて安全性を損うことになる。)から、かような設計、施工は前記仮堤防設置の経緯に照らしても無理があると考えられ、かつ、第一審原告らの主張は、仮堤防に在来堤防以上の強度を期待するものであるから、当裁判所が仮堤防について示した前記の所見とその前堤を異にし、採用することができない。

第三  西名柄仮堤防の破堤

一  仮堤防の切り下げの経緯とその程度

西名柄仮堤防は、その破堤前に堤体の切り下げが行われ、その程度いかんが破堤の経過及び態様を認定するうえで必要となるのみでなく、右切り下げが仮堤防の管理の瑕疵に当るかどうかが争点になつているので、まず、右切り下げの経緯及びその程度について検討する。

(一)  西名柄仮堤防設置の経緯等

西名柄地区が、七・一七洪水により破堤し、その後第一次締切工事を経て、第二次締切工事として、西名柄仮堤防が昭和四一年八月二〇日完成したこと、右仮堤防の天端は流出した旧堤防とほぼ同高であり、また上下流在来堤とほぼ同高であること、右仮堤防の設置が負担法に基づく災害復旧事業として施行された応急工事であること及び同仮堤防が設置されるに至つた経緯については、原判決二八九頁ないし二九三頁の「二 向中条、西名柄地区の仮堤防工事(一)、(二)」記載のとおりであるからこれを引用する。

右によると、仮堤防は、西名柄、向中条地区の大湾曲部のショートカットによる新河道が設けられるまでの暫定的な応急工事として設置されたものであることが明らかである。

(二)  仮堤防設置後の西名柄地区における新堤防築堤工事の実施状況

〈証拠〉を綜合すれば、次の事実が認められる。

昭和四三年の出水期前にショートカットを含む新河道を概成させるためには、まず、新河道の流心部となる西名柄部落を移転させ、新堤防を設置し、新河道を掘削しなければならないところ、県土木部では当初昭和四二年梅雨期前には左岸(旧西名柄)堤防を完成し、その背後地の新発田市等の安全を守ることを企図したが、西名柄部落の移転交渉が若干手間どつた。すなわち、県土木部は昭和四一年八月二五日より西名柄地区住民との間に集団移転交渉に入つたが、同年一一月八日に至つて漸く用地の測量等が行われることとなり、翌昭和四二年四月一五日に至つて右移転に関する調印がなされた。そして、同年五月二五日に同部落の移転先の宅地造成を完了し、同年七月四日から同年八月一二日にかけて右地区住民の移転が完了した。他方、県土木部は左岸堤防を早期に完成するため、昭和四二年一月の末から同年三月三一日まで西名柄地区の住民に影響のない左岸新堤防の一部工事を行い、同年五月からは同地区住民の了解のもとに本格的に新堤防の築堤工事を開始し、同年七月三一日には新堤防を仮堤防に接続させるまでの工事を行つた。そして、県土木部では、同地方にはいわゆる二二〇日以降の台風による被害が経験上多いと考えていたことから、新堤防工事を同年九月一〇日頃までに概成させる予定であつた。それは、新堤防が出来上れば、本件仮堤防はその使命を果して不用となり、これに代つて、本堤防である新堤防が背後地の安全を保持することになるからである。また、県土木部では、その後の工事予定として、同年一一月中旬頃までに左岸に低水護岸を設置し、昭和四三年三月頃までに残工事を終えて通水し、右岸堤防も左岸工事の進展に合わせて早急に完成させる予定であつた。

(三)  仮堤防切り下げの理由とその程度

〈証拠〉を綜合すれば、次の事実が認められる。

前記のとおり、新堤防の築堤工事は着々と進んだが、新堤防を上流の在来堤防と接続させて概成するためには、仮堤防の前面に新堤防を設置しなければならないことになる(原判決添付図2―19(A)参照)ところ、その築堤工事及び護岸工事に必要な機材(ドラグライン、バイブロハン等の重機械及び鋼矢板等の機材)を搬入しなければならなかつた。そこで、県土木部は、右搬入路をいろいろ検討したが、上流側の在来堤防上には、羽越線の鉄道施設及び西名柄の揚水用パイプが敷設されていて適当でなく、また、名柄道路から仮堤防の裏面を斜めに登つて、重機械を直接新堤防築堤敷地に入らせることは、重機の重量、構造上その搬入に無理を生じ、また、市道である名柄道路の混雑を招くおそれがある等の難点があり、その他諸般の事情を考えると、結局、名柄道路から新堤防と仮堤防の接合部を登り、仮堤防天端を上流に伝い、仮堤防、在来堤防接合部付近から仮堤防前面へ降りるというルートが最も好適であるとの結論に達した。しかし、仮堤防の天端は三メートルであるのに、ドラグラインは巾3.2メートルあり、しかも重量が二五トンないし三〇トンもあるので、通路としては四メートル以上の幅員が必要となる。そこで、県土木部は同年八月五日頃本件仮堤防を約五〇センチ程度切り下げて天端巾を4.5メートルと決め、同年八月一〇日と一一日の両日にわたつて、請負人株式会社加賀田組をして同仮堤防の切り下げ工事をさせた。切り下げた土砂の量は約二三〇立方メートルであつた。

以上の事実が認められる、〈証拠判断略〉。

(四)  仮堤防の切り下げと洪水対策

前記小林、海老名両証人の各証言によれば、県土木部では、もし右切り下げに伴い、洪水のおそれのあるときは前記加賀田組に対し、同社が使用しているダンプトラック約三〇台、ブルドーザー約三台を使つて、西名柄移転部落の跡地から土を採取し、また、県土木事務所に麻袋、杭等の水防資材を備蓄して緊急事態に対処することを準備していたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

二  西名柄仮堤防の破堤の経過と態様

〈証拠〉を綜合すれば、次の事実が認められる。

(一)  八月二八日午後零時頃から午後三時頃まで

同日午前中からの降雨で加治川が徐々に増水してきたので、新堤防の築堤工事、仮堤防の切り下げを請負つた加賀田組は、午前中に実施していた新堤防低水護岸の鋼矢板の打込み準備作業を中止し、午後零時頃から旧西名柄部落及び仮堤防切下げ部分の前にあつた重機資材類の引き上げを始め、午後三時頃これを完了した。そこで、その頃同組の工事責任者で現場代理人であつた海老名正夫は県新発田土木事務所の小林災害復旧課長に対し、水位が仮堤防の鋼矢板上端を越えていることなど電話連絡し、その対策を問い合わせたところ、同課長は麻袋を用意する等切り下げ天端の復元の準備をすること及び同事務所泉技師を派遣したのでその指示に従うようにとの回答をした。そこで、右海老名は直ちに麻袋の手配を始め、待機中の七、八台のダンプトラックの運転手に対し、旧西名柄部落跡地から河床掘削により集積してあつた土砂を仮堤防切り下げ箇所付近に運搬するよう命じた。ところが、右ダンプトラックが右跡地付近に赴いたところ、その頃同地区に降つていた激しい集中豪雨のため右跡地はすでに水浸しとなつており、同地への進入が不可能な状況であつた。そこで、右海老名は右ダンプトラックの運転手に対し、太郎浜、松浜等の適当な場所から盛り土及び麻袋用の土を運搬してくるように指示した。

(二)  同日午後三時頃から午後五時頃まで

午後三時半頃県新発田土木事務所の泉技師が現地に到着した。その頃の水位は、スケールで測定したところ、仮堤防蛇籠より約一メートル下りに達していたが、仮堤防の切り下げた天端よりまだ約1.5メートル程度の余裕はあつた。同技師は、右海老名に対し、切り下げ箇所の復元に必要な土砂の搬入を指示し、かつ新河道流心部付近の河水の流水を緩和するために同所の仮堤防天端の切り下げを命じた。ところが、盛土については前記のとおり採取が手間取つていたうえ、かねて県土木部が右復元作業のため備蓄しておいた麻袋二、三〇〇〇袋がその頃氾濫をはじめた小河川の水防作業のため持ち出されていた。そこで、土木事務所では、急拠新潟市内から右麻袋を調達することにした。

午後四時頃、河水が増水してきたので、泉技師は加賀田組に対し、仮堤防と新堤防の接合部に作つた工事用道路(新堤防天端より二メートル程度低く、また仮堤防切り下げ天端より0.5メートル程度低かつた。)に新堤防の天端を厚さ約一メートル削つて盛土するよう命じた。なお、新堤防下流部に設けられた取付道路(名柄道路から旧西名柄部落に通ずるため新堤防の一部を天端から約二メートル掘削して造成した工事用道路)についても、その頃溢流のおそれが生じたので泉技師は福田組に対して同様の措置を命じた(なお、右各工事用道路の復旧作業はいずれも午後五時頃には終つた。)。

(三)  同日午後五時頃から午後六時半頃まで

午後五時には、新潟地方気象台から大雨洪水警報が発令された。そして、午後五時半頃には、同仮堤防に地元民二〇名程度と加賀田組の職員、作業員約三〇名位が集り、それぞれ適宜持ち寄つた麻袋に加賀田組が運んできた土砂を詰めて切り下げ部分の土のう積みを開始した。

午後六時頃には手配をした麻袋ならびに盛土及び詰土用の土砂(松ケ崎から搬入した砂丘砂)が大量に搬入され始め(最終的には、トラックにして延二六九台分約一、二〇〇ないし一、三〇〇立方メートルの土砂が搬入された。)、また、出動命令が下つた新発田市各部落の消防団員が続々と現地に到着し始め、かくして切り下げ部分に対する土のう積み作業は本格的に行われることとなつた。

(四)  同日午後六時半頃から午後九時頃まで

午後六時半頃、消防団の指揮者として新発田消防団長が、水防工法指導者として新発田土木事務所井口工務一課長が現地に到着した。

そこで、各分団長を集めて、土のう積み作業方法の会議が現地で行われ、まず同仮堤防切り下げ箇所全区間にわたつて土のうを川に面して長手積みとした三段積みとすることが決定され、ただちに右作業が開始された。この作業はこの頃までに集合していた約二〇〇名の消防団員と地元民、加賀田組職員及び作業員によつて行われた。また、この作業の進捗を図るため、加賀田組のブルドーザー三台により詰土用土砂を堤防上に押し上げる作業が並行して行われた。

午後七時頃には、県が出動を要請していた自衛隊員約四〇名も現地に到着した。そこで、再び消防団長、工務一課長、自衛隊指揮官、各分団長が土のう積み作業方法の会議を行い、前記決定の土のう積みの規模を改めて、さらにこれを強化することとし、高さは六段積みとし、巾については、下段三列、上段二列の台形型断面とすることが決定された。そして、この作業は自衛隊、消防団を上、下流に分け、更に消防団も各分団毎に分担区域を決めて行われた。なお、土のう積みの高さは、同仮堤防天端の切り下げ以前の高さ、できればこれ以上の高さに復元するということで行われ(土のう一個の高さは約一〇センチメートル程度)、午後九時頃、仮堤防切り下げ箇所に土のう六段積み作業が行われて、同箇所は切り下げ前の仮堤防天端高とほぼ同じ高さになつたが、土のう積みに若干不揃いのところがみられ、また中央部付近は上、下流のそれよりもやや低くなつていた。

(五)  同日午後九時頃から午後一〇時半頃まで

午後九時頃の加治川の水位はやや下り、仮堤防の蛇籠が0.3メートル程度出るまでになつた。そこで、消防団員と自衛隊員は九時半頃夕食のため警戒要員を残して引き上げた。

その後、泉技師らは加賀田組職員らに対し、切り下げ天端の土のう積みの背後に盛土による裏腹付を実施するよう指示し、また、警戒要員として残つた消防団には土のう積みの隙間からの漏水を予防するため土のう積みをビニールシートで覆う作業を指導した。この土のう積み背後の盛り土作業はブルドーザー三台で前述の砂丘砂を用いて行われたが、午後一〇時半頃には終了した。なお、この盛り土は前面の土のう積み頭が多少出る程度の高さに施工された。

この頃より再び降雨が激しくなり、切り下げ箇所天端の盛り土及びブルドーザーの昇降補強用として法面に積んだ土砂が流され、雨裂が発生するようになつた。さらに、上流の東北電力加治川ダムの洪水通過量が増加したとの連絡が入つた。また、水位も小康状態から上昇傾向に変つた。そこで、再度消防団と自衛隊の出動の要請が行われた。

(六)  同日午後一一時頃から翌二九日午前零時半頃まで

午後一一時頃までに再出動した消防団三〇名位が現地に到着した。この頃は降雨も激しくなつたので、消防団は加賀田組職員らと土のう積みの背後の盛り土上から裏法尻へかけての雨裂防止のビニールシート張りを切り下げ箇所中央部付近より開始した。なお、この頃までに、前述の土のう積みをビニールシートで覆う作業は切り下げ箇所中央部付近から上下流かなりの範囲にわたつて行われた。

また、前記のように土のう積み区間中央部付近の土のう積みの高さが上、下流部のそれよりも若干低くなつていたため、その頃消防団はこの付近より土のう積みの嵩上げ作業も開始した。

同日午後一一時半頃、再出動した自衛隊約四〇名が現地に到着し、その後まもなく右嵩上げ作業に加わつた。右嵩上げ作業に自衛隊が加わつたころの中央部付近の水位は土のう積みの上端より四〇センチメートル下り位となつた。そして、その後も水位は急上昇し、流速も勢いを増し加治川の表面は波打つような状態になつた。

翌二九日午前零時半頃、泉技師は仮堤防と新堤防との接合部付近(土のう積み箇所の下流部分)から溢水と思われるほど多量の漏水が裏法に落ちてきたのを発見し、直ちに土のう積みを指示した。この頃になると、あちこちで土のう積みの隙間から漏水現象が生じていたが、当時の加治川の水位はいまだ土のう積みの上端を越えるまでには至つていなかつた。

(七)  二九日午前一時頃から午前一時半頃まで

この頃の加治川の水位は、ほぼ満水に近い状態に達し、麻袋積みの間からの漏水もさらに激しさを増し、麻袋積み区間中央部付近では麻袋と麻袋の鞍部から、さらには麻袋の上を乗り越えて溢水が始つた。このため自衛隊は危険を感じ指揮官の号令により一旦は退避し始めた。しかし、その頃向中条地区が破堤したとの情報が入つたため自衛隊は消防団とともに再び水防活動を始めた。そして十分間位これが続けられた。

しかし、午前一時半頃の水位は向中条地区が破堤したにもかかわらず上昇し続け、土のう積み区間の下流部でも溢水現象が生じ、また同中央部付近では溢水巾が三〇メートル位にも拡がり、さらに麻袋も流されるようになつて、溢水の深さも処によつては三〇センチ位となるところも生じ、手の施しようがない状態となつた。そこで、地元民、消防団員及び自衛隊員は危険を察知して退避した。その後、間もなくして仮堤防は、切り下げ部分中央部から水勢に押し流されて破堤するに至つた。

大要以上のとおりに認められ、前記証拠中、右認定に抵触する部分は措信できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

三  破堤原因と管理の瑕疵について

前項で認定した西名柄仮堤防の破堤の経過と態様に徴すれば、破堤の直接的原因は、河水の上昇による溢流であるが、もし、本件仮堤防について切り下げが行われず、また切り下げ後の修復が完全に行われていたとすれば、あるいは破堤を免れたのではないかとも考えられるので、右切り下げ及び修復が管理の瑕疵に当るかどうかについて検討してみる。

(一)  切り下げと管理の瑕疵

本件仮堤防について、もし切り下げが行われなかつたとすれば、仮堤防の天端上で土のう積み等の水防作業をすることが可能であつたと考えられ、そうだとすれば、麻袋の間からの漏水や土のう積み中央部の溢流という事態もあるいは回避され、前記のような状況で本件仮堤防が破堤することはなかつたであろうと推測されるのであつて、仮堤防の切り下げが仮堤防の脆弱化を招来し、これが破堤の一因となつたことは否定しえないところというべきである。

しかしながら、右切り下げが破堤の原因となつたことが、直ちに河川管理の瑕疵に結びつくものと断ずることはできない。すなわち、本件仮堤防は背後地の安全を確保する治水機能を有する河川管理施設であるが、同時に、新堤防、新河道を作るための工事用仮設物でもあるから、仮堤防の切り下げが河川改修工事として、やむを得ずなされ、かつ、その実施の時期及び程度において誤りがなく、しかも右切り下げに伴い通常予想される洪水の危険に対処する措置が講じられている場合には河川管理行為として是認されなければならないのであつて、かような場合においては、切り下げが破堤の原因となつても管理についての瑕疵責任を問いえないというべきである。

そこで、右の観点から本件仮堤防の切り下げの是非について考えてみるのに、前記一(二)及び(三)で認定した仮堤防切り下げの経緯に鑑みれば、新堤防を完成するためには、仮堤防を切り下げて重機等の搬入路を作る必要があつたこと及びそれ以外に適切な手段がなかつたことが認められるから、県土木部が行つた本件仮堤防の切り下げはやむを得ないものであつたと認められる。次に、右切り下げの時期について検討するのに、一般に、堤防の切り下げは洪水による溢水の危険性を伴うから渇水期に行うのが適当であることは多言を要せずして明らかである。しかしながら、本件のように本堤防を完成するために仮堤防の切り下げが必要である場合においては、本堤防の完成により背後地の安全性が高くなるのであるから、出水期間中でも過去の経験上比較的安全な時期を選択して施行するならば、許容されうると考える。ところで、本件切り下げは、八月一〇日に実施され、新堤防が築堤される九月一〇日頃まで約一か月間にわたつて右状態が存続する予定であつたこと前記のとおりであり、右期間は一般に二一〇日、二二〇日といわれる台風シーズンに当ることは周知のとおりである。

しかしながら、原審証人小林一三の証言によれば、県土木部関係者は、新潟県における台風シーズンとして洪水の危険を伴う時期は経験上九月末と考えていたこと、したがつて、それ以前に西名柄仮堤防に代る左岸新堤防を概成させたいと考えていたこと、そして、八月及び九月初旬頃は五〇センチ程度の切り下げをしても比較的に危険性の少ない時期と考えていたことが認められる。

そこで、右県土木部関係者の考え方が客観的にも誤りがないかどうかを検討してみるのに、いずれも成立に争いのない乙第九号証の六の二の一〇(新潟県災害年報―その四風水害の部)、乙第九号証の六の二の一一(同年報―その五風水害の部)によれば、大正四年以降昭和二五年までの新潟県における風水害の記録をみると、主な台風による被害は、九月中旬以降一〇月初旬に多く生じていることが認められ、また成立に争いのない乙第九号証の八(昭和二九年二月作成の新潟県の洪水資料)によれば、昭和一〇年から昭和二八年にかけて新潟県下に発生した洪水を伴う台風一二例についてみると、八月中及び九月初旬に発生したものは三例で、七月に発生したもの一例、その余の八例は、九月中旬から十月中旬にかけて発生したものであることが認められる。さらに、〈証拠〉(いずれも新潟県内の気象統計)によれば、昭和二八年から昭和四一年に至る各八、九月に発生した台風の状況についてみると、被害を伴う程度の台風の来襲は九月下旬に多く集中していることが明らかに看取される。

このようにしてみてくると、県土木部が出水期間中とはいえ、八月一〇日に仮堤防の切り下げを行つたことは必ずしも時期の選択を誤つた無謀な企てとはいえず、却つて被害を伴う蓋然性のある九月下旬の台風シーズンに焦点を合わせ新堤防の完成との兼合いを考慮してなされた工事として相当であつたと考えられる。

次に、切り下げの程度について検討するのに、原審証人吉武公夫の証言によれば、西名柄地区における加治川の堤防は大正三年以来昭和四一年七月一七日の洪水まで約五〇年間、洪水による被害をうけなかつたことが認められるから、七・一七洪水規模以上の洪水は別として、通常予想される洪水に対しては五〇センチ程度の切り下げを行うことにそれほどの危険性があつたとは考えられない。そして、県土木部において、洪水が発生した場合の応急措置を計画していたこと前記のとおりであるから、通常予想される洪水には対処しえたと考えられる。

このようにみてくると、西名柄仮堤防の切り下げにつき、第一審被告らの仮堤防の管理の瑕疵があつたと認めることはできないというべきである。

(二)  切り下げの修復と瑕疵

前記認定の破堤経過からみると、水位の上昇とともに、麻袋間から漏水がみられ、また、若干低くなつていた中央部は、その後の補強作業にもかかわらず、その甲斐なく結局溢流を余儀なくされたものであることが推認されるのである。それが破堤の一因となつたと考えられないではない。しかしながら、切り下げ部分の修復は麻袋積み等の臨時応急的な水防作業によるほかないのであるから、これによつて切り下げ前の堤体と同じ強度のものを作り上げることを期待することはできないというべきである。したがつて、修復が一定の条件のもとで水防作業として相当な程度になされた場合においては、たとえ、それが前記認定のような不測の洪水に対処しえず、破堤の原因となつたとしても管理の瑕疵ということはできないというべきである。この観点から、前記認定の切り下げ部分の修復作業の経過をみると、当初において麻袋及び盛土の調達の遅延等若干の不手際がみられたものの、地元消防団員、自衛隊員、加賀田組員等の献身的な協力によつて、切り下げ部分の全体にわたり、ほぼ一様に切り下げ前の仮堤防の高さまで土のう積みが行われ、その後も漏水部分及び若干低くなつていた中央部分に対する土のう積みの補強作業が鋭意行われたものであるから、人員及び時間の制約のもとでなされた水防作業としては、相当の水準に達していたものというべく右麻袋積み作業に若干の不揃いや高低及びこれに伴つて漏水、溢水が生じたとしても、これをもつて修復に瑕疵があつたと評価すべきものではないと考える。けだし、右程度の修復の不完全性は、麻袋積みという応急措置の技術上の限界と考えられ、また切り下げに伴う危険の範囲内として許容されるべきものと考えられるからである。

(三)  以上、検討したところによれば、本件仮堤防の切り下げ及び修復がその破堤の一因と考えられるとしても、それは社会通念上是認せられる範囲内のものであるから、第一審被告らにはその管理瑕疵責任がないというべきである。

第一審原告らは、西名柄仮堤防の破堤箇所は土のうを積んでも切り下げ前の天端高より七、八〇センチメートルも低かつたと主張するが、右主張は前記認定の事実に照らして採用できない。また、第一審原告らは、本件仮提防はその破堤前に河水の浸透により裏法面が相当軟弱化していた旨主張するが、同仮堤防の裏法面が向中条の仮堤防のように崩落現象を起したとか、雨水または河水の浸透が破堤の原因となつたことを認めるべき証拠は見当らない。したがつて、浸透破堤を前提とする瑕疵の主張は採用できない。また第一審原告らは、向中条仮堤防と同一の理由を挙げて西名柄仮堤防の築堤工事に瑕疵があつたと主張するが、右認定の破堤原因に徴すれば、築堤工事の瑕疵を推認させうるような浸透ないし洗掘による堤体の崩落現象は認められないのであるから、右主張も採用の限りでない。さらに、第一審原告らは、西名柄仮堤防についても、向中条仮堤防について述べたと同様に天端全体が水防活動を十分保証するものでなければならないとか、あるいは在来堤防より堤高を高く築堤すべきであると主張する。しかし、西名柄仮堤防の水防活動上の制約は、堤体の切り下げという特別の事情に随伴するものであつて、やむを得ざるものと評価すべきものであることすでに判示したとおりである。また、仮堤防の堤高を在来堤防以上にすべきであるとの主張を採用しえないことは、すでに向中条仮堤防についての同一の主張について判示したとおりであるから、これを引用する。

ほかに本件仮堤防が前記のとおり破堤したことにつき第一審被告らの設置または管理上の瑕疵があつたことを認めるべき証拠はない。

第四  下高関地区右岸堤防の破堤

一  破堤の経過と態様

〈証拠〉を綜合すれば、次の事実が認められる。

(一)  八月二八日午後二時頃から午後三時頃まで

午後二時頃下高関地区付近の加治川の水位は低水護岸を越えたり、越えなかつたりという程度に達した。そこで、午後二時半頃新発田市大友地区、下高関地区消防団に召集命令が下つた。そして集つた消防団員四〇名位と地元民らが加治川右岸大友・下高関地区間の警戒に当つた。

午後三時頃大新橋下流六、七〇メートルの右岸大友地区堤防裏法尻付近に漏水箇所が発見された。そこで、同消防団はこれに対処するため月の輪工法等の水防活動を開始した。しかし、下高関地区堤防については二九日午前零時頃まで何ら危険な徴候は認められなかつた。

(二)  八月二九日午前零時頃から午前三時頃まで

二九日午前零時頃、水位は下高関地区の七・一七洪水後破堤箇所に築造した新堤防前面のコンクリートブロック張りの高水護岸上端からブロック三、四枚下り程度に達した。このため、コンクリートブロック張り高水護岸下流端よりさらに下流二〇メートル位の区間の堤防(在来堤防)の表法面に欠け込みが生じ始めた。

そこで、その頃その付近で警戒に当つていた消防団員ら約二五名ないし三〇名はこの欠け込み部分に「木流し」の水防活動を開始した。また、これに伴い堤防上の照明が必要となつたため、当時消防団員らとともに警戒に当つていた株式会社伊藤組職員現場監督倉島惣助は同会社作業小屋(同社作業小屋は原判決一八六頁図二 19(B)の加助六の一L=三二〇メートルの施行区間の上流端(終点)裏法尻付近に設置されてあつた。)にあつた投光器二器の堤防上への設置(コンクリートブロック張り高水護岸下流端付近天端上に一器、加助六の一L=三二〇メートルの施工区間の中間付近天端上に一器)とその配線作業を始めた。この照明設備の設置と配線は一時間以上かかつて午前三時頃までには完了した。

この間も前記欠け込み部分の「木流し」作業は続けられていた。右部分の欠け込みは、同所が在来堤部分であり、また水流の直撃箇所からはやや下流に外れていたことからさほど急激には進行しなかつたが、午前三時頃までには右欠け込みは天端巾の三分の一位まで達した。

(三)  同日午前三時頃から午前四時頃まで

午前三時過ぎ頃前記倉島惣助は、前記欠け込み箇所で「木流し」作業に加わつていたが、伊藤作業小屋に水防資材を取りにゆくため堤防天端を上流へ引返した。その途中同人は、加助六の一L=三二〇メートルの施行区間の中間部付近の天端上を歩いていたところ、かなり高い波を伴つた濁流が同所の堤防表法面に激突していた。同所は水衝部であるため、波浪は高水護岸部分を越えて高いときで天端から三〇センチメートルないし五〇センチメートル下りにまで達していた。そして、同所付近の堤防表法面は巾約二〇メートルにわたつて天端付近まで洗掘されていた。同人は、右洗掘箇所が新堤防の高水護岸の上の土羽部分であるため、洗掘が急速に拡大していくものと突嗟に感知し、大声で叫び、付近を通行中の者に対し、下流で前記「木流し」作業に従事している消防団員に至急引き上げてくるよう連絡方を依頼した。その後間もなくして、消防団員らは右洗掘箇所まで引き上げてきて天端上において事態の推移を見守つたが、右洗掘箇所の欠け込みが急速で、手の施しようがなく、一五分位して、欠け込みは天端巾の半分位まで達した。そのため、消防団員らは、同所付近にいることが危険になつたので、同所から一五〇メートル位上流の作業小屋付近まで退避した。

その後約二〇分程して、同日午前四時頃右洗掘箇所の欠け込みが天端の裏側にまで及び、同所付近から新堤防は破堤するに至つた。

大要以上の事実が認められ、〈証拠判断略〉。

判旨 二 破堤の原因

前項で認定した下高関右岸新堤防の破堤の経過と態様に徴すれば、同堤防は高水護岸上部の余裕高部分(コンクリートブロック工事が施行されていない土羽部分)から加治川の流水による波浪に洗われて欠け込みが生じ、その欠け込みが急速に拡大進行したことが破堤の主な原因と考えられる。そして、前記認定の事実によれば、右波浪が余裕高部分を襲つたのは約四〇分程度、長く見積つても一時間以内と推測され、しかも河水が天端を越す程度までに増水したとの事実が認められないのであるから、右余裕高部分が前記認定の流水に耐えられなかつたことが破堤の一因であつたことは否定することができない。

そこで、右破堤の経過及び態様からみて、右破堤が河川管理の瑕疵に基因するものであるかどうかについて検討する。

三  余裕高部分に対する護岸設置に要否について

第一審原告らは前記認定の洗掘破堤箇所は湾曲外延部のため水勢の著るしく強いところであり、七・一七水害でも洗掘破堤したところであるから、洗掘防止のためには、表法面を可及的に水勢から保護する止水材料を使用すべきであるのに、天端から1.2メートル下りまでの間の表法部分にコンクリートブロック張りをしないまま設計施工をしたものであり、その点において同地区の災害復旧工事に瑕疵がある旨主張する。

そこで、まず、右主張を検討するのに先立ち、同地区新堤防の護岸及び余裕高部分の構造についてみると、下高関地区の右岸堤防は、七・一七洪水により破堤し、その後、県土木部は新たな河道計画として基本高水流量毎秒一、七四〇立方メートルから二箇所の治水ダム設置によるカット量を除いた残量として、毎秒一、一四〇立方メートルに対応する計画高水位を天端より1.2メートル下りとし、この計画高水位以下の表法にコンクリートブロック張りの高水護岸を施し、さらに天端から高水護岸までの余裕高部分の表裏法に三〇センチメートルの被覆土を施し張芝を行つたものである(この点の詳細は、原判決三一一頁ないし三一五頁の「(三)下高関地区の災害復旧助成事業」についてのとおりであるから、同記載を引用する。)。

そこで、次に右堤防の位置、過去の水害の経過等に照らして、余裕高部分の護岸の要否について考察するのに、成立に争いのない甲第二七号証、乙第一号証の七、八のb、一〇、同第一〇号証の四の二、原審証人豊島喜四郎の証言により真正に成立したと認められる同第三号証の七、原審における第一審原告石井平治本人の供述を綜合すれば、加治川は下高関地区で大きく湾曲しており、同付近の河床勾配は三〇〇分の一程度で右湾曲部の外延部に位置しているため、右岸は加治川でも有数の水衝部となつており、洗掘に対する危険度が高いところであること、そのため昭和七年及び昭和九年の水害では八・二八水害で破堤した右岸堤防に接続する上流部(当時は土羽堤)が洗掘破堤したため、洗掘防止のため野面石練積み工事が表法面の天端付近まで行われたこと、そして、同地区はその後昭和四一年七月一七日の洪水まで水害をうけなかつたが、同洪水により今度は右の石積み区間の下流部(土羽堤)が洗掘破堤したこと、右石積み区間は同洪水には安全であつたことが認められる。

右認定の事実と前記破堤の経過及び態様に徴すると、下高関地区の右岸堤防については天端までコンクリートブロック張りの工事を施行していれば、前記認定のような洗掘破堤を免れたのではないかと一応考えられ、かような設計及び工事をしなかつた本件堤防の設置又は管理に瑕疵があつたのではないかと考えられないではない。

(1)  しかしながら、県土木部が天端まで護岸をしなかつた事情は次のようであつたことが認められる。すなわち、当審証人前島晃、同小林一三の各証言を綜合すれば、県土木部関係者は河川工学上の知識及び経験から、急流の河川における堤防の洗掘の危険性について、洗掘率は水深に比例して高くなるので堤防の洗掘は脚部からの洗掘が通常であつて、堤防上部からの洗掘はほとんどないと認識していたこと、七・一七洪水時の下高関地区右岸堤防の破堤も実地調査の結果、堤防脚部の洗掘によるものであり、昭和九年になされた前記野面石練積み工事も堤防上部が洗掘されたために天端までの護岸がなされたものではないと考えていたこと(なお、昭和七年及び昭和九年の破堤の経過及び態様ならびにその後の築堤に関しては詳細が不明である。)、そして、堤体上部からの洗掘は本件災害まで経験がなかつたこと、また、下高関地区の河道は一メートル程度の掘削を残しているものの以前よりも掘削が進み、河積も相当広くなつていたので、洪水が余裕高部分にまでくることは予想していなかつたこと、なお、加治川上流のような急流河川においては流水が堤体上部にきても減水も早いので同部分の水当りの時間は比較的短時間であると考えていたこと、県土木部関係者は、かような認識のもとに、七・一七洪水後災害復旧助成事業として築堤すべき下高関地区の右岸堤防については、その洗掘対策として、低水護岸及び根固め工及び余裕高部分の下端までに高水護岸を設け、かつ河床掘削を行えば、これをもつて同堤防の洗掘防止は十分可能であると考えていたことが認められる。

(2)  そこで、次に右のような県土木部関係者の認識が客観的見地からみても誤りがなかつたかどうかについて検討する。

いずれも成立に争いのない乙第一二号証の六、七の①ないし、九の①ないし⑨を綜合すれば、建設省河川局防災課が昭和五四年一月六日付で各都道府県河川(砂防)課等に対し、計画高水流量毎秒五〇〇立方メートル規模以上の築堤河川の破堤災害を対象として調査依頼したところ、三五の道府県、九地方建設局及び北海道開発局から四二〇事例の回答があり、そのうち溢水破堤二四二例、漏水破堤その他一〇例を除く洗掘破堤例一六八例についてなされた調査の結果をみると、堤体下部からの洗掘が一一一例、堤体中部からのそれが四四例、堤体上部(余裕高部分)からのそれが本件下高関地区の八・二八洪水の場合を含めて九例であること、また新潟県内の洗掘破堤事例は二八例であるが、そのうち堤体下部からの洗掘が二七例で、堤体上部からのそれは本件下高関の事例が唯一であることが認められる。

また、当審証人萩原兼脩の証言によれば、堤防が洗掘されるのは流水の有する掃流力に基因するものが大半であり、掃流力は水深と水面勾配に比例するものであり、したがつて、洗掘率は河床部分が最大であり、上部に向うに従つて最小となるというのが河川工学の常識であること、また下高関地区程度の河床勾配のところでは余裕高部分についてまで護岸工事をしないのが通常の工法であることが認められる。もつとも、同証言によれば、堤防の余裕高部分に護岸する事例は、第一審原告ら指摘のとおり存するが、それは、例えば(一)河川勾配が一〇〇分の一程度の急流河川では(ちなみに、加治川の下高関地区の河川勾配は前記のとおり三〇〇分の一である。)、流水が上に飛びはねて余裕高部分を容易に侵蝕するおそれがあり、また、川巾の広い河口付近の堤防では、海からの波浪が計画高水位を越え余裕高部分を壊すおそれが大きいためであるほか、(二)鹿児島県の一級河川「川内川」のように、市街地を貫流していて大規模改修が困難かつ長期間を要するため、やむを得ず都市区間に限つて天端まで護岸工事を施している場合など特殊な場合に限られていることが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

この点に関し、前記吉川鑑定は、「河川堤防の余裕高部分に対しては現状では芝張り法覆工以外の特別の法覆工はほどこされないのが通例である。(中略)余裕高部分では洪水の流れにさらされる時間が我が国では比較的短く、流勢も堤体の下部に比して激しくないから、波浪の特に激しいと予想される場所以外では一般に芝張工のみが行われ、コンクリートブロック張工などの特別の法覆工が設けられていない。(中略)最近では法覆工の高さは原則として計画高水位までとし、洪水中の流れによる侵蝕に対して堤防の安全度を上げることとし、計画高水流量以上の洪水に対して危険が生じたときは水防作業により堤防の侵蝕防止を行うようになされているのが一般である。これらの事よりして本件の法覆工の高さに関しては、通常の河川改修として問題がなく、堤防天端から1.2メートル下つた表法部分にはコンクリートブロック張工が設けられていなかつたが、張芝工が施されていたので問題はないものと判断する。(後略)」との所見を述べている。

ところが、同鑑定が指摘しているように、本件下高関右岸堤防は堤防としてほぼ完成され、これに近接する他の部分に比して高さの点では安全度が高いとはいえ、前記のとおり治水ダム設置によるカット量毎秒六〇〇立方メートルを除いた残量として毎秒一、一四〇立方メートルを計画高水流量とし、これに基づいて計画高水位及び余裕高部分を定めたものであり、河床掘削も一メートル程度残されていたのであるから、右ダムの設置及び河道改修がなされるまでの間は、右計画高水流量以上の洪水に見舞われることが予想されるのであり、したがつて、県土木部関係者が余裕高部分にまで洪水がくることはないものと考えていたことは、その認識に誤りがあつたというべきである。

(3)  しかし、原審及び当審証人小林一三の証言ならびに右吉川鑑定を綜合すれば、加治川の場合、上流部分で計画高水位を越す洪水の継続時間は一、二時間と短く、また、流速も毎秒3.5メートル程度であるうえ、堤体上部に対する流勢の侵蝕作用は弱いことが経験的に知られているので、下高関右岸新堤防の余裕高部分に洪水がきても、同部分に植栽した張芝が生育していれば流勢に耐えうるし、芝が未成育でも予め十分な事前準備をしておけば「木流し」あるいはむしろ張り等の水防活動により堤防の保守をなしうることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

そうだとすれば、余裕高部分にまで洪水がくることを考慮しても、そのことから直ちに護岸をしなければならないと速断することはできないというべきである。

以上認定の事実を綜合勘案すれば、本件下高関地区の堤防の築堤に際し、余裕高部分についてコンクリートブロック工を設計、施工しなかつたことについては相当の理由があつたというべきであり、また、当時における河川工学の知見、水準、工法及び洗掘破堤に関する統計、調査の結果に照らしても、右余裕高部分につき護岸のなかつたことが堤防の設置又は管理の瑕疵に当ると断定することはできないというべきである。

第一審原告らは、県土木部が八・二八洪水後、本件破堤箇所の法面及び天端につき三面張りとしたことを挙げて下高関地区の堤防の余裕高にコンクリートブロック工を施工すべきものであつたと主張するが、当審証人小林一三の証言によれば、右三面張りは連年破堤に伴う住民の不安を解消するための特別の配慮によるものであつたことが認められるから、これをもつてしては、いまだ前記判断を左右するに足りないというべきである。

四  水防責任と河川管理の瑕疵

次に、第一審原告らは、県土木部では下高関地区破堤箇所に上流部におけるダム建設等を前提にして、これが完了しないうちは過去の洪水量に耐えられない新堤防を作つたものであるが、河川改修計画がある年数を要することは当然にしても、それまでの間は計画高水位以上の水位が予測されるところから、少なくとも、右の如き洪水に備えての水防資材の準備、地元消防団等に対する河川改修の進捗状況や下高関地区堤防の安全性についての説明等水防活動上必要な予備知識の教授、洪水時における水防資材の提供と水防工法の指導等のための職員派遣等がなされるべきであつたのに、これらの措置をなさなかつたから、これは河川管理の瑕疵に当ると主張する。これに対して、第一審被告らは、水防法によれば、第一次的な水防責任は水防管理団体(市町村水防事務組合、水防予防組合)にあるものとされており、また、沿革的にも地元住民が水防活動を行つてきたことを考えると、水防計画の策定もしくは、その具体的内容の決定、水防資材の準備、洪水時の具体的活動等は水防管理団体によつて行われるものであり、河川管理者はこれに協力するに止まらざるを得ないのであるから、右の協力義務を尽しておれば河川管理者としての水防責任を果したといえる旨主張する。

なるほど、水防法、災害対策基本法を通覧すれば、水防責任に関する第一次的責任は水防管理団体にあると解されるのであり、また第一審被告らの主張は水防責任に関する一般論としては首肯することができる。しかしながら、河川法一条、二条によれば、河川法は洪水の発生を防止する目的を有し、河川管理は右の目的を達成するために適正に行わなければならないのであり、しかも同法二二条によれば、河川管理者は洪水、高潮等による危険が切迫した場合においては自ら水災を防禦し、被害を軽減するための緊急措置をとることができる権限を与えられているのである。

また、水防法は、河川法とその立法の趣旨を異にしているが、水災を防止するという目的では共通しているのであつて、水防法三五条の二は、「建設大臣は都道府県又は水防管理団体に対し、都道府県知事は都道府県の区域内における水防管理団体に対し、水防に関し必要な勧告又は助言をすることができる。」旨規定している。

そして、わが国の多くの河川においては、河川改修工事の完成までの間、現実に洪水に対処できるのは改修途上の現堤防だけであるから、これにより洪水を防禦しなければならない。また、改修工事の完成後でも異常洪水に見舞われることが予想されるのである。このような場合、現堤防を越流する水位、時間が大きい場合は、水防をもつてしては対処し得ないが、そうでなければ、水防活動により堤防決壊という重大な惨害を免れることができるわけであるから水防の意義は極めて大きいといわねばならない。しかし水防のために、いかに多くの要員、材料が集められても、河川、堤防の状況に適した水防工法と敏速な対応が伴わなければ、水防の目的を達成することができないのであつて、水防が十分効果を発揮するためには、河川管理者が有する河川管理及び防災上の専門的知識、経験に基づく適切な指導、助言という強力な支援を必要とすることは多言を要せずして明らかである。そして、右のような十分な指導連絡態勢のもとに水防関係者と河川管理者とが車の両輪の如く相互に補完協力し合つてこそ、はじめて洪水による災害を防止又は軽減することが可能であることも明らかである。

そこで、かような見地から、第一審被告県知事が河川管理者として水防管理団体等の水防関係者に対し、本件新堤防の水防上特に留意すべき事項を的確に連絡し、これに基づく適切な指導助言をしたかについて検討する。

当審証人小林一三は、余裕高部分の張芝は昭和四二年三月末になされたもので、芝が効用を発揮するまでには一年の生育期間を要し、その間余裕高部分は全くの土堤防で土の固りと同じ状態であるにすぎず、したがつて、その強度は弱い旨証言し、前記吉川鑑定も余裕高部分の張芝が十分生育していないため、張芝工の耐え得る流速にまで侵蝕防上効果のなかつたことが余裕高部分の洗掘を促進したものと想像する旨の所見を述べているのである。そして、八・二八洪水当時においては、下高関地区の堤防は、堤体自体はほぼ完成しているとはいえ、ダム設備等が未完成であるため、計画高水流量以下の洪水が発生した場合でも、余裕高部分が洪水にさらされる危険があること前記のとおりであるから、河川管理者としては、いわゆる未完成堤防の場合と同様洪水の危険に対処しうる安全対策をたてておくとともに、とくに余裕高部分の張芝が未成育である期間は水防上特段の配慮を要する旨を事前に水防管理団体等の水防関係者に周知徹底させておくべきである。

当審証人小林一三は、県新発田土木事務所長とともに、加治川水防事務組合あるいは工事請負業者、地元住民に対して、新しい堤防は非常に弱いこと、とくに土羽堤の部分は注意してほしい旨、口頭で説明した旨証言するが、右証言によつては、県土木部が水防関係者に対し、本件新堤防の安全度ことに余裕高部分の水防の必要性及びこれに関連する水防工法及び準備態勢をどの程度具体的に説明したかが判然としないのみならず、同証人は当審において余裕高部分にまで洪水がくることを予想していなかつた旨証言しているのであるから、右の説明が具体的になされたとは認められない。そして、前記認定の新堤防の破堤の経過と態様に徴すれば、下高関地区の水防作業に従事していた地元消防団員等の水防関係者が県土木部から新堤防の余裕高部分に洪水がきた場合の危険性を事前に知らされ、かつその対策につき指導助言をうけて水防活動に従事していたとは到底認めることができない。

右認定の事実によれば、県土木部(新発田土木事務所)では平時より加治川につき適切な水防活動がなされるよう地元水防管理団体(加治川水防事務組合)に対し種々の指導と助言をしていたとの第一審被告らの主張を認めることはできず、却つて、県土木部は下高関地区新堤防の余裕高部分に洪水がくることはないものと軽信し、水防管理団体に対し、余裕高部分に洪水がきた場合の危険性について具体的かつ適切な説明を行い、かつこれに対処すべき適切な指導助言を積極的に行わなかつたと認めざるを得ないのである(この点に関し、前記吉川鑑定も、第一審被告県が水防団に対し、水防工法指導等について具体的な処置をとつていないことを不適切であると指摘している。)。そして、県土木部が適切な指導助言をしていれば、破堤により最も被害をうける地元水防管理団体及び地元住民としては新堤防の問題性を知り、余裕高部分の洗掘等の事態に対処するため事前に相当の水防上の準備をしていたものと推測され、そうすれば、水防関係者が気付かないうちに余裕高部分の欠け込みが生じ、その後水防活動もできない状態で急速に破堤するという前記認定のような事態は回避することができたものと推測されるのである。

そうだとすれば、本件下高関の堤防はその設置についての瑕疵は認め難いが、その後の維持管理につき、第一審被告県知事には、河川管理者として水防上の責任を尽さなかつた瑕疵があつたというほかなく、第一審被告国はその管理の主体として、第一審被告県は管理費用の負担者として国家賠償法二条及び三条の規定に基づき右管理瑕疵につき責を負うものというべきである。

五  下高関右岸堤防のその余の瑕疵責任について

前項のとおり、第一審被告らにつき水防上の管理瑕疵責任が肯定される以上、水防責任に関する当事者双方のその余の争点(職員の派遣、水防資材の提供等)及び第一審原告らが下高関地区堤防についての管理瑕疵を問うその余の主張については、いずれも判断を加える必要がなくなつたものというべきである。

そこで、第一審被告らの主張する下高関右岸堤防の管理瑕疵不存在に関するその余の主張について判断する。

(一)  余裕高部分の洗掘について

第一審被告らは、堤防は、余裕高により、計画高水位までの安全性が確保されるものであり、洪水位が計画高水位をこえる場合の浸透及び余裕高部分の法面の洗掘に対しては、安全性を保つように設計されていないから、洪水が計画高水位をこえるような事態によつて破堤しても、堤防の設置管理に関する河川管理瑕疵はないものというべきである旨主張するので、この点について判断する。

堤防は計画高水位を基本としてこれに適合した構造をもつように築堤されるのが通常であるから、計画高水位以上の洪水に対しては堤防の安全性が低下するのはやむを得ないものというべきである。しかし、余裕高部分が堤防に設けられているのは、一時的にせよ洪水が計画高水位を越えて同部分に冠水する事態に備えるためであり、この部分は水防活動により保守されるべきものであるから、洪水が余裕高部分を越えて溢流するとか、長時間にわたり継続的に冠水する場合は別として、余裕高部分が短時間流水にさらされるだけで、適切な水防活動もなされずにたやすく崩壊するようでは巨額の費用を投じて築堤した堤防の安全性に対する地域住民の信頼を裏切ることになりかねないと考えられる(ちなみに、水防対策の重要性について、成立に争いのない乙第五号証の一六(建設省編「日本の河川」四六頁)は、「我が国の河川には急流河川が多く、その特質として、わずか数時間の水防活動によつて溢水破堤をまぬがれ、また緩流部においても長時間の洪水、漏水による軟弱化に対して、水防活動が効果をおさめた例が少なくない。」と指摘している。)。

しかるに、本件のように、余裕高部分の冠水が短時間であつたのに、河川管理者において余裕高部分の張芝が未成育で同部分の強度が脆弱であることを知つていたにもかかわらず、同部分にまで洪水がくることはないものと軽信したため、水防関係者に対し事前に同部分の水防につき、適切な指導、助言の措置を講じなかつたこと前記のとおりである以上、河川管理者の水防上の管理瑕疵責任は免れ得ないものというべきである。

したがつて、第一審被告らの右主張は採用することができない。

(二)  いわゆる過渡的安全対策としての河川の管理について

第一審被告らは七・一七洪水程度の洪水に対する安全性が確保されるには、河川改修工事が完成しなければ達成できないことであるから、改修工事に着手して一年足らずの八・二八洪水当時過渡的安全対策として、七・一七洪水程度の洪水に対する安全確保義務を要求することは不当であり、過渡的安全対策は、河川全般の改修工事の進捗状況及びこれを施工しようとしている区間の上、下流対策等の状況を考慮しつつ、効用を一にする一連区間の堤防が、その時点で有している平均的治水機能等を比べて均衡を失しない範囲で行うべきであり、したがつて、特定区間の堤防のみを強化すべきではないとして、その論拠を詳細に主張している(第一審被告らの当審における補足的主張「第二下高関地区堤防が通常備えるべき安全性について」は殆んどすべて、これに関するものである。)が、右は要するに過渡的安全対策として下高関地区堤防の余裕高部分にコンクリート張の護岸を施工すべきであるとの判断をくだした原判決に対する反論として主張されているものであつて、当裁判所が認定判断した水防上の責任に関するものではなく、かつこれと論理的に結びつく主張でもない。よつて、余裕高部分の護岸の要否について原審と判断を異にする当審においては、右主張について判断を加える必要はないと考える。

第五  河川の未改修と管理瑕疵

第一審原告らは、「昭和二七年第一審被告県は姫田川合流点下流の加治川本川の計画高水流量毎秒一、四四〇立方メートルを変更して毎秒二、〇〇〇立方メートルと定めたのであるから、その改修をなすべきであつたのに、一四年間右姫田川合流点以下の河川断面は最大流下能力毎秒一、六二〇立方メートル以上には改修されていなかつた。そのため、七・一七洪水時には、毎秒一、九三四立方メートル、八・二八洪水時には毎秒二、三六〇立方メートル程度の洪水を流下させることができず、向中条、西名柄地区の堤防は連年破堤という事態に至つた。これは、第一審被告らが昭和二七年に改訂した毎秒二、〇〇〇立方メートルの計画高水流量を定めながら、その改修を怠つたことによるものであり、この点において河川管理の瑕疵がある。」と主張する。

一  計画高水流量の法的意義

そこで、まず、計画高水流量が河川改修においてどのような法的意義を有するかについて検討する。

現行河川法は、七・一七水害の発生した前年の昭和四〇年四月一日から施行されたものであるが、同法一六条は、「河川管理者は、その管理する河川について計画高水流量その他、当該河川の河川工事の実施についての基本となるべき事項(以下、「工事実施基本計画」という。)を定めておかなければならない。」と規定し、さらに、河川法施行令一〇条には、河川法一六条所定の工事実施基本計画の作成に当つて、「洪水、高潮等による災害の発生の防止又は軽減に関する事項については、過去の主要な洪水、高潮等及びこれらによる災害の発生の状況並びに災害の発生すべき地域の気象、地形、地質、開発の状況等を綜合的に考慮すること」(一項一号)とし、河川工事の実施の基本となるべき事項として、「イ、基本高水(洪水防御に関する計画の基本となる洪水をいう。)並びにその河道及び洪水調節ダムへの配分に関する事項、ロ、主要な地点における計画高水流量に関する事項」等を定め、また、河川工事の実施に関する事項として、「イ、主要な地点における計画高水位、計画横断形その他河道計画に関する重要な事項、ロ、主要な河川工事の目的、種類及び施行の場所並びに当該河川工事の施行により設置される主要な河川管理施設の機能の概要」(二項二、三号)を定めることが必要とされている。そして、同法七九条二項は、都道府県知事がその管理する二級河川について工事実施基本計画を定めようとするときには、建設大臣の認可をうけなければならないものとしている。

右一連の規定を通覧すれば、現行河川法は河川管理者に対し洪水を防止又は軽減するための措置として、計画高水流量を基本とした工事実施基本計画を策定し、これに基づいて特定水系の綜合的な河川管理をなすことを法的に義務づけていると解するのが相当である。

第一審被告らは河川管理が道路管理とは本質的に異る特殊性と困難性を有するものであり、河川管理の本質は、本来的に危険を内在している河川について、治水事業等により、その安全性を高めていく過程をいうものと理解すべきものであり、國はこうした政治的責務を負つているものと解すべきであると主張し、國に法的義務を問えるのは、河川管理が全國的な治水事業の一般的水準からみて著るしく劣つている場合に限定すべきであると主張する。なるほど、河川管理には道路管理と異なる特殊性があり、河川管理には、河川の有する特質に基づく改修の困難性があることは後記認定のとおりである。そして、旧河川法(明治二九年法律第七一号)当時には、計画高水流量を基本とした河川改修事業が法的義務であるかどうかについて多大の疑義があつたというべきである。すなわち、旧河川管理に関する規定をみると、「河川ハ地方行政庁ニ於テ其ノ管内ニ係ル部分ヲ管理スヘシ」(六条一項本文)、「地方行政庁ハ河川ニ関スル工事ヲ施行シ其ノ維持ヲナスノ義務アルモノトス」(七条本文)と規定し、都道府県が河川の管理及び工事施行維持の原則的主体となることを定め、「河川ニ関スル工事ニシテ利害ノ関係スル所一府県ノ区域ニ止マラサルトキ又ハ工事至難ナルトキ若ハ其ノ工費至大ナルトキ」(八条一項)等大工事等の施行の場合に例外的に主務大臣が工事の施行者となり、かつ管理の主体となることが認められていたにすぎず、現行河川法のように、河川管理者が計画高水流量を基本とした工事実施基本計画を作成し、これに基づいて管理を行うべき旨の規定はなく、また、同法が制定された頃のわが國の法的事情に鑑みても、河川管理者が定める計画高水流量をもつて、河川法が定めた河川改修の法的根拠と解するのは難しく、むしろ、河川改修計画は単に河川管理者の達成する行政的な到達目標と解するのが相当であつたと考えられないではない。

しかしながら、現行河川法は水災から國土を保全し、公共の安全を保持し、公共の福祉を増進することを志向して、前記のとおり河川管理の法的基準を明らかにし、これに基づいて河川管理ないし河川改修工事がなされることを河川管理者に命じ、かつこれに明確な法的根拠を与えているのであるから、これを法的義務を伴わない政治的責務と観念することは相当でない。

しかし、計画高水流量を基本として河川改修事業を行うことが法的義務であるといつても、それが一朝一夕に実施しえないものであることは、事柄の性質上むしろ当然というべきであり、したがつて、右法的義務と河川管理瑕疵との関係を考察するに当つては、河川改修事業の実情、特質、これを実施するうえでの諸制約を参酌しなければならないと考える。

二  河川未改修の状況

そこで、次に、河川未改修の実情についてみるのに、成立に争いのない乙第五号証の一六及び当審証人萩原兼脩の証言ならびに弁論の全趣旨を綜合すれば、わが國の河川には計画高水流量まで河川改修工事が施行されていない未改修河川(改修未着手及び改修途上の両者を含む趣旨である。)が多数あり、これを流域面積二〇〇平方キロメートル以上の大河川(その延長は一万二、七〇〇キロメートルに及ぶ。)についてみると、昭和五一年頃で整備率五二パーセント、流域面積二〇〇平方キロメートル未満の中小河川(その延長は七万三、五〇〇キロメートルに及ぶ。加治川はこの種の河川に属する。)の整備率は僅か約一三パーセントにすぎないこと、そして、昭和五二年六月第五次治水事業五箇年計画が閣議決定され、事業費として、総額七兆六、三〇〇億円が支出されることとなるが、それでも大河川について戦後最大洪水を対象に再度災害を防止することを整備目標として、整備率六〇ないし六二パーセントとなるに止まり、中小河川については時間平均雨量五〇ミリメートル程度の降雨(降雨確率五年ないし一〇年に一回)を対象として整備することを目標にしても、整備率は約二〇パーセントに達する程度であり、今後右目標流量を達成するのに要する費用だけでも約三〇兆円を要すると概算されること、また、財政的理由のほか、技術的制約及び社会的変動があつて、河川改修工事は時間的にも長年月を要する場合が多く、建設大臣直轄の大河川の改修でも明治初年から始めて、いまだに整備目標に達していないものもあり、中小河川では戦後改修工事を始めて、完成していない河川が多数あり、その平均的事業期間としては二〇年以上を要していることが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

右認定の事実によれば、現行河川法の施行された昭和四〇年四月当時すでに計画高水流量に達していない未改修河川は全國に多数あり、その状態は現在も続き、将来においても相当長期間にわたつて容易に解消される見込のないこと、右改修遅延の主な原因は河川改修に要する財政的な負担が巨額であることのほか、社会的、技術的な制約もあることが推認される。

そして、右のような事情は現行河川法制定の当時から判明していたものと推測される(なお、河川法令は、基本高水流量を基本とした工事実施基本計画の達成時期については、何ら規定するところがない。)のであり、したがつて、計画高水流量の達成については、立法当時から、相当長期間を要するものとして、弾力的に運用されることが予定されていたと推測されるのである。

三  河川改修の特質―道路の管理との対比

道路に施すべき安全施設についても、その設置管理に多額の財政的負担を要することから、かつて、道路管理者は予算不足を管理瑕疵の免責事由としていたこと、しかし、判例(例えば最高裁判所昭和四五年八月二〇日第一小法廷判決、民集二四巻九号一、二六八頁)は原則として、これを認めていないことはすでに周知のとおりである。そもそも、道路は人及び車を安全に走行させる施設として人工的に設置されるものであるから、安全でない道路を設置したり、安全でない状態で人及び車を通行させることは道路管理上許されないものであるという考え方が支配的だからであろう。また、道路の場合には、河川と異り、例えば、豪雨、洪水等による危険が生じ、又は生じうる危険性が予測されたときには、道路の一時閉鎖、通行止め等の危険回避の方法がとりうるのであり、さらに右のような措置をもつてしても危険性が除去しえない場合には、路線の廃止、道路の供用廃止処分によつてでも危険回避の可能性が残されているのであるから、右危険回避のための防護施設に財政上多額の負担を要する旨の免責の抗弁はこれを認める必要がないからであると考えられる。

しかし、河川の管理は道路と異り、昔から氾濫を繰り返えして自然に形成された河道につき洪水を安全に流下させ、災害を未然に防止あるいは軽減させることを目的として営々と河川改修工事が継続され今日に及んでいるものである。そして、河川管理には、道路の場合のように河川の一時閉鎖というような危険回避の手段はないのであつて、どのような規模で来襲するか予想の難しい降雨、洪水に常に対処しなければならないのである。そして、通常予想される洪水から背後地を守るためには、計画高水流量を適正に定め、これを基本として堤防の安全性を高めていくことはもとよりであるが、堤防のみによる河川の改修には自ら限度があるのであるから、河道を拡幅あるいは掘削し、または流路を整正し、さらにダムを設置する等河川及びその流域の特性及び社会経済的諸事情に適合した河川改修工事をしなければならないのであり、そのためには用地の買収、住宅の移転等のほか、水利権との調整等の問題も解決しなければならないのである。

四  河川改修における財政的制約と管理瑕疵

右に述べたように、河川改修事業には、現状においても、また将来においても巨額の負担を伴い、かつ技術的、社会的見地からみても相当長期間を要する要因を含んでいるものであるから、河川管理について、右のような諸制約、就中財政的制約のあることを度外視して瑕疵の有無を論ずるのは相当でなく、右の制約があつて河川の改修が計画高水流量を相当の期間達成できない場合において、右未改修が原因となつて河川事故が生じたときには、管理瑕疵責任について他の公の営造物とは異なる配慮をしなければならないものと考える。

ところで、財政的制約を考慮にいれることについては、河川未改修という河川の安全性が欠如している状態であるのに、管理責任を免れるから不当であり、また國が河川改修について十分な予算を支出していない現状においては、河川改修を遅延させることになるという第一審原告らの反論がある。

なるほど、前顕乙第五号証の一六(建設省編『日本の河川』一一一頁)の記述をみると、建設省自体、「治水事業は、その重要性にかんがみ、明治以降昭和二〇年代までは、公共事業の主役として事業を推進してきたが、昭和三〇年の後半から始まつた高度成長期には、経済を拡大し、豊かさを求めるための投資のかげにかくれ、河川の治水機能が流域の経済社会活動におくれを取ることになり、水害に弱い國土になつてしまつたのである。明治以来、今日までの治水投資は約一四兆円(昭和五〇年価額)であり、その歴史の古さ、重要性に比して極めて小さく、GNPとの比較では最近は低下傾向にある。現在の治水機能は昭和五一年末で大河川にあつては約五二パーセント、中小河川は約一三パーセント、土砂害対策事業は約一〇パーセントにすぎず、したがつて、治水施設の整備を強力に推進することが最も根幹的である。」と指摘しているほどであり、また、いずれも成立に争いのない甲第三九号証の一ないし三によれば、第一審原告ら主張のように、國の予算において、道路の場合に比して河川の予算が少ないこと、例えば、昭和三〇年に道路、河川がほぼ三九八億円対三三六億円であつたものが、昭和四〇年には前者が五、三六三億円、後者が一、三五六億円と四倍の差が生じ、それが昭和五〇年には道路予算が一兆九、八四九億円となつたのに対し、河川予算は五、一〇七億円に止まつていることが認められるのであつて、河川改修予算が十分でなく、右のような予算規模では河川改修は相当長期間にわたつて進捗しないことも、また明らかである。

しかしながら、國の予算は、公共の安全維持、福祉、経済の発展、文化教育の向上等あらゆる面から、綜合的に配分が決められるものであり、したがつて、河川改修予算が十分でないからといつて、それだけで國の河川改修に対する財政的措置が違法であるとは断定できない筋合のものであり、また、今後河川改修に格別な配慮が要請されるにしても、わが國の財政負担能力からみて河川改修を完了するに足りる巨額の費用を早急に予算に計上することは到底期待できないのであるから、河川の改修については財政的な制約を考慮の外におくことは相当でないというべきである(右の点は、地方公共団体の予算についてもほぼ同様である。)。

五  河川管理瑕疵と免責

以上述べたところを綜合すると、河川管理者は河川法に基づき計画高水流量を基本とする河川改修計画を実現すべき義務を負つているのであるが、それが河川改修の特質に由来する財政的、技術的及び社会的諸制約によつて着手できず、あるいは遅延している場合においては、右未改修が当時の河川管理の一般的水準及び社会通念に照らして是認されるものである限り河川管理者(したがつて、その主体である國、以下同様)は管理義務を尽したものとして、右制約が存続する間は改修未着手あるいは遅延の責を免れうるものとするのが相当である。

もつとも、右諸制約による未改修が河川改修の緊急性ないし必要性との相関関係において社会通念上是認しえないような場合、例えば未改修によつて招来されるであろう洪水の危険が顕在化し、その改修が背後地の重要性から緊急を要する状態にあることが明らかであるような場合において、その改修に要する費用が当時における河川改修の一般的水準及び社会通念に照らしても均衡を失するほど多額でないようなときには、河川管理者の改修未着手あるいは改修の遅滞は河川管理の瑕疵となり、免責されないというべきである。

六  本件河川未改修と瑕疵の有無

1  昭和二七年の計画高水流量決定の経緯

第一審被告県が昭和二七年姫田川合流点以下の計画高水流量を毎秒二、〇〇〇立方メートルと決定したうえで加治川改修計画を策定したことは、当事者間に争いがない。

そこでまず、右計画高水流量の決定に至る経緯について調べてみると、〈証拠〉を綜合すれば、次の事実が認められる。

加治川の流末をなるべく短距離で日本海へ落そうとする計画は古くからあつたが、費用の調達難、利水との関係調整等さまざまな隘路があつて仲々実現しなかつた。そのため、明治に入つてから、真野より下流の水害が続出し、加治川本川の排水が不良となるとともに、新発田川、新井郷川の排水も悪くなり、福島潟一帯はこのため洪水時には何日も湛水し、その被害は年々激化の方向にあつた。そこで、明治二四年には関係市町村をもつて水害予防組合が組織され、新潟県に陳情し、自らも費用の一部を負担することとした結果、漸く明治三八年に加治川に河川法が適用されることとなり、関係地主の協力を得たうえで明治四〇年から真野原外新田地内より次第浜に至る約4.9キロメートル(一里九町余)の分水路工事が、工費、工事期間を定めて起工され、大正三年に竣工した。その後下流部に簡易な護岸工事を施工し、大正六年頃、その改修を完了した。次いで、大正九年から洗堰より姫田川合流点まで6.5キロメートルに及ぶ区間につき河積拡大及び築堤の改修工事に着手し、昭和四年右改修工事を終了した。

かくして、右分水路工事をはじめとする一連の河川改修事業が行われたため加治川とくに姫田川合流点以下の治水効果は大いに挙つた。

しかし、姫田川合流点より上流の加治川本川と支川の姫田川、坂井川は右の改修工事から取残されたため、小氾濫が繰返されており、また加治川本川の姫田川合流点より洗堰間では既改修区間(計画高水流量は毎秒一、四四〇立方メートル)となつていたが、その後の降雨状況等から同区間も河積拡大と堤防を補強する必要があるとして、改修の気運が高まり、昭和二七年に県土木部は中小河川改修工事を行うこととした。

当時計画高水流量については実測値はなかつたが、計画日雨量として赤谷観測所における大正九年から昭和二六年までの最大値が昭和九年七月一二日の日雨量一六八ミリメートルであるとして、余裕をみて計画日雨量二〇〇ミリメートルを採用した(もつとも、成立に争いのない乙第九号証の八によれば、右最大値は昭和七年七月の日雨量172.1ミリメートルであることが認められるが、計画日雨量を二〇〇ミリメートルとしているので右の誤りはとくに問題とすべきものではない。)。

そして、右計画日雨量を基本として、計画高水流量を、本川については姫田川合流点より下流で毎秒二、〇〇〇立方メートル、上流で毎秒一、二〇〇立方メートル、姫田川については坂井川合流点下流で毎秒一、〇〇〇立方メートル、上流で毎秒四七〇立方メートル、坂井川については三光川合流点で毎秒七〇〇立方メートル、上流で毎秒六〇〇立方メートルとそれぞれ決定し、これにより加治川全般にわたる改修全体計画を策定した。しかし、右計画の実施に要する工事期間、予算等の詳細は一切不明である。

以上の事実が認められる。

2  昭和二七年改修計画の施工状況

〈証拠〉を綜合すれば、次の事実が認められる。

右改修工事は、まず従来の加治川改修から取残された上流地区の河川の安全度を下流部程度まで向上させることから行うこととし、姫田川合流点より上流岡田間の河積を拡大し、左岸の山付堤より下流を補強し、右岸は引堤を行つた。姫田川、坂井川合流点より上流は自然蛇行河川の無堤防であつたので、蛇行部のショートカットを実施した。

加治川本川姫田川合流点下流については、洗堰までが前記改修計画の対象であり、その改修の主眼は、河床を掘り下げ、洗堰を切り下げて天井川の解消を図ることにあつたが、昭和四一年の七・一七水害までこのような抜本的改修の着手までには至らなかつた。ただ、中州の発達している箇所について、その掘削や堤防の補強がなされた(その後右区間の流下能力は毎秒一、六〇〇立方メートルとなつた。)。なお、本川河口部は局部改良事業で河口閉塞防止のための導流堤と護岸が施行された。

右改修工事に要した総事業費(自昭和二七年至昭和四一年)は約三億七、五〇〇万円であつた。

3  毎秒二、〇〇〇立方メートル計画未達成の事情

次に、向中条、西名柄両地区の所在する姫田川合流点下流の改修区域につき毎秒二、〇〇〇立方メートルの計画高水流量が昭和四一年七月一七日の水害時までに達成されなかつた事情について調べてみるのに、〈証拠〉を綜合すれば、次の事実が認められる。

(一) まず、新潟県内の昭和二一年以降における二九の中小河川の改修事業の推移をみると、すでに昭和二一年には四河川について改修事業が行われていたのに、加治川につき改修事業が行われるようになつたのは、昭和二七年であり、県内で九番目であつた。そして、昭和二七年から昭和三五年頃まで加治川に対する改修事業費の割当額は下位にあつたが、昭和三六年頃から昭和四〇年頃にかけては、中位もしくは中位の上位にランクされるようになり、改修費が順次増額されてきた。なお、新潟県内で改修費が上位にランクされている中小河川は、例えば鯖石川、黒川、栖吉川、刈谷田川等災害をうけた河川が殆んどである。加治川は昭和四一年七月一七日の洪水まで顕著な災害をうけていなかつたが、昭和三〇年代後半からは中位または上位に近い改修費が配分されていた。ちなみに、昭和二七年から昭和四〇年に至る新潟県における中小河川の改修事業費は災害が多発したことに起因すると推測されるが、全國的レベルからみても、決して少ないと評価されるものではなく、むしろ高順位にあつた。

ところで、河川改修予算は災害河川に優先的かつ重点的に配分される建前がとられていたため、加治川のような災害の少ない河川についてまで予算が潤沢に割当てられる状況にはなく、改修期間として一五年以上を要する中小河川は全國的にも多数残されていた。

(二) また、姫田川合流点下流につき抜本的な改修事業を行うためには、農業用水問題を先に解決する必要があつた。すなわち、同所には大小一三個所の取水樋管があつて、加治川の河水を自然取水していたため、河床を掘下げるには、この用水施設を付帯工事等で先に完成させておかなければならなかつたが、これには相当多額の費用を要するものがあつたうえ、右用水施設については、農林省(現在の農林水産省)が、上流の内の倉川に利水ダムを建設し、姫田川合流点下流に第一、第二統合頭首工を作り、農業用水の総合利用施設を設ける計画をしていたので、新潟県土木部としては、その実現を待つ形となつていた。このようなことから、右下流部の改修としては、中州の発達したところは掘削し、堤防を補強するという程度の工事を実施しているにすぎなかつた。

4  計画高水流量毎秒二、〇〇〇立方メートル計画未達成と管理瑕疵

そこで、前記1ないし3で認定した事実を総合すれば、加治川の姫田川合流点下流は、大正六年の分水路完成後は約五〇年間にわたり昭和四一年七月一七日の水害まで災害がなく、安定した区域であり、昭和二七年さらに安定した河川区域を志向して計画高水流量毎秒二、〇〇〇立方メートルの改修計画が策定されたものの、危険の顕在化している災害河川のように、早期に右改修計画を実現しなければならない状況にあつたとは認められないこと、また、当時の河川予算の規模及び全國的な河川改修の進捗状況からみても、右改修区域のように比較的安定性のある箇所につき一四年程度で改修を完了することを河川管理者に期待することは難しい状況にあつたこと、のみならず、右改修区域につき毎秒二、〇〇〇立方メートルの流下能力のある改修を実施するには、先決問題として農業用水施設を完成しておかなければならないという重要な制約があつたこと等諸般の事情を綜合し、かつ、さきに示した河川管理瑕疵と免責に関する一般的基準に照らしてみると、右毎秒二、〇〇〇立方メートルの改修計画が昭和四一年七月一七日の水害までに進捗しなかつたことをもつて河川管理者である新潟県知事に河川管理の瑕疵があつたと認めるのは相当でないというべきである。

したがつて、第一審原告らの前記主張は採用することができない。なお、第一審原告らは、他の主要河川が計画高水流量を時代の変遷につれて大巾に増加改訂していることを挙げて、加治川につき昭和二七年策定された毎秒二、〇〇〇立方メートルの計画自体が昭和四一年当時においては不当となつた旨主張する。しかし、ある特定の河川について適正に策定された計画高水流量は、他の河川につきそれが改訂されたからといつて、河川管理者がこれにならつて変更しなければならないものではなく、当該河川につき気象、流量、地形、地質、開発の状況及び災害の発生等に変化があつて改訂を必要と認めるべき事情が生じた場合に変更すべきものと考えられるところ、昭和二七年以降四一年七月一七日の洪水までの間に、加治川につき気象、流量の変化及びその他前記のような計画高水流量を改訂すべき事情が生じたことを認めるべき証拠は見当らないから、右主張も採用し得ない。

七  河川未改修に関連する管理瑕疵

1  次に、第一審原告らは、加治川が明治三六年ないし明治三九年に連年破堤し、かつ明治一〇年、一一年及び明治二九年、三〇年にも連年水害が起きており、加治川水害史からみれば、七・一七洪水のあつた昭和四一年の翌年である昭和四二年にも同様の洪水が発生することは当然予測可能の範囲内であつたから、連年洪水に対処できるように河川管理を行うべきであつた旨主張する。しかし、前顕乙第八号証の二一によれば、明治に入つてからの水害記録をみると、明治四年から明治三九年までの三六年間に二一回洪水による災害をうけていること、そのうち、明治二二年に竣工した「岡田瀬替」までの明治前半には実に一八年間に九回の岡田の破堤があり、その後明治二九年以降は姫田川合流点より下流部が連年あるいは隔年毎に水害に見舞われていることが認められるのである。そして、右の水害は前記のように分水路工事が完成しなかつたため通常の規模の洪水でも容易に災害となつたものであり、その後において同下流部が連年災害のあつた事実は昭和四一年及び昭和四二年の連年災害まで認められないこと前記のとおりである。したがつて、加治川には異常洪水が連続的に生じることが予想されるとの事実は認め難い。のみならず、昭和四一年七月一七日に発生した洪水により破堤した堤防を復旧し、かつ同堤防を同洪水規模程度に耐えうるようにするためには、前記のとおり、向中条、西名柄両地区に仮堤防工事を施行したのち、右両地区の河道につき、ショートカット工事及び新堤防築堤工事を行う必要があつたものであるから、七・一七洪水規模に耐える強度の堤防の築堤及び河道の整正を昭和四二年八月までに施行することを期待することは、西名柄部落の移転の困難性等を考慮すれば、河川管理者に不可能を強いるに等しいことというべきである。かようなわけで、右主張は採用することができない。

2  さらに、第一審原告らは、河川管理者である新潟県知事が加治川につき河川法一六条所定の工事実施基本計画を作成しなかつたため七・一七洪水前の堤防の改良工事及び同洪水後の築堤工事にも不都合をきたしたから、同計画を作成しなかつたことに瑕疵があると主張するので、この点について検討する。

七・一七洪水当時、新潟県知事が加治川につき工事実施基本計画を定めていなかつたことは当事者間に争いがない。ところで、工事実施基本計画は河川管理者がその管理する河川について当該河川の河川工事の実施について基本的事項を定めるべく、河川管理者にその作成義務が課せられているものであることは、現行河川法一六条の明定するところである。したがつて、同法が施行された昭和四〇年四月以降河川管理者は遅滞なくこれを作成しなければならないことはいうまでもない。しかしながら、河川管理者がその管理する多数の改修河川につき工事実施基本計画を作成するには、河川法施行令一〇条に列挙された事項に照らしても、相当の期間を要するものと推測されるのであり、したがつて、同法施行後一、二年の間に生じた七・一七及び八・二八洪水時までに同基本計画が河川管理者である新潟県知事によつて加治川につき作成されなかつたからといつても、それが直ちに河川管理の瑕疵となるほどの遅滞と認めることはできないというべきである(ちなみに、成立に争いのない乙第七号証の五(「解説河川管理施設等構造令」三六九頁)によれば、同基本計画が定められていない河川であつて、改修計画が定められているものについては、同基本計画策定の手続はおおむね三年以内に完了するものとすることなる旨の行政指導がなされていることが認められる。)。のみならず、現行河川法施行前の昭和二七年から加治川の改修工事が行われていたこと前記のとおりであり、また七・一七洪水後八・二八洪水までは、姫田川合流点下流につき毎秒三、〇〇〇立方メートルの計画高水流量を基準として改修計画が樹立され、これに基づき鋭意災害復旧及び改修工事が進められていたこと前記のとおりであつて、現行河川法に基づく工事実施基本計画が策定されないことにより右改修工事に不都合あるいは支障をきたしたことを認めるべき証拠もない。

したがつて、右の主張も採用するに由ないものというべきである。

第六  河川管理に関する一般的瑕疵の主張について

第一審原告らは、河川に対する管理とは特定の河川の管理に止まらず、広く國の河川に関する法律、政令等の制定、行政の方針、予算の支出の方針等を含めた広義の管理作用として理解すべきであり、個々の河川における災害の発生が右の広義の管理作用における瑕疵に由来するものであれば、その瑕疵の責任が問われるべきものであると主張し、(一)七・一七及び八・二八洪水当時河川法一三条二項所定の政令が未制定であつたこと、(二)負担法二条二項が原型復旧の方針を明定していること、(三)國の災害復旧予算の方針は三年度分割主義(初年度三、次年度五、三年度二)を採用していることを挙げて、これらが七・一七洪水前の堤防の管理あるいは同洪水後の堤防の設計施工を不十分なものとし、本件災害を招いたと主張する(但し、下高関地区堤防の管理瑕疵については、すでに前記のとおりその責任を認めたので、右主張についての判断は省略する。)。

(一)について 昭和四〇年四月一日施行された現行河川法一三条二項がダム、堤防等の河川管理施設の構造について河川管理上必要とされる技術的基準は政令で定める旨明定しているのに、右政令が昭和四一年七月一七日及び翌昭和四二年八月二八日の各水害までに制定されなかつたことは当事者間に争いがない(同政令が昭和五一年七月二〇日河川管理施設等構造令(政令一九九号)として公布施行されるに至つたことは、成立に争いのない乙第七号証の四によつて明らかである。)。

そして、同政令は、河川管理者が準拠すべき河川管理施設の設置又は管理に関する具体的基準を示すものであるから、河川法施行後可及的速やかに制定されるべきであつたことはいうまでもない。しかしながら、右政令が未制定であつたからといつて、直ちにその間になされた河川管理施設の設置又は管理に瑕疵があるとはいえないのであつて、右政令が未制定の間は、河川管理者としては河川法一三条一項及びその当時における堤防の築堤及び維持管理に関する一般的な技術水準に準拠し、かつ各河川管理施設の設置場所、河川の状況等に応じて適切な設置又は管理を行うべきであつたものである。しかして、本件向中条、西名柄両地区の仮堤防の設置については、その性質上、本堤防の技術基準をそのまま適用することに種々の難点があることさきに指摘したとおりであり、また、前顕乙第七号証の四によれば、昭和五一年に公布施行された河川管理施設等構造令七三条も、仮堤防については、同令を適用しないと明定しているのである。のみならず、所論の政令が制定されなかつたことにより、右両地区の七・一七水害前の堤防及びその後設置された仮堤防の設置及びその後の管理につき瑕疵が生じたことを認めるべき的確な証拠もない。

そうだとすれば、政令未制定をもつて管理瑕疵責任を問う第一審原告らの主張は採用し得ない。

(二)について 第一審原告らは負担法が原型復旧主義を採用しているため、本件三堤防の八・二八洪水による破堤を招いたと主張するが、負担法の定める災害復旧が原型復旧主義を原則的に採用していることは所論のとおりである(同法二条二項)が、同法二条三項が「災害に因つて生じた事業で災害にかかつた施設を原型に復旧することが著るしく困難又は不適当な場合においてこれに代るべき必要な施設とすることを目的とするものはこの法律の適用については災害復旧事業とみなす。」旨定めていること、及び同法事務取扱要綱(昭和三一年一二月一〇日建設省発河第一一四号建設事務次官通知)の「第三」には、その実施要綱が定められていること(このことは成立に争いのない乙第七号証の一によつて認められる。)に照らせば、例外的に改良復旧が認められているのである。しかも、七・一七洪水後の前記向中条、西名柄両地区に関する河川改修工事がいずれも原型復旧以上の規模で設計施工されていたことは、さきに認定判断したところによつて明らかである。

したがつて、右主張も採用することができない。

(三)について 第一審原告ら主張のとおり災害復旧事業の予算の支出が三か年に分けてなされていることは当事者間に争いがない。しかして、右予算の分割主義の当否は暫らく措き(もつとも、右予算の分割支出については、成立に争いのない乙第七号証の二によれば、昭和三〇年七月一九日の衆議院建設委員会において緊急性に応じて適切に運用がなされるべき旨の付帯決議がなされていることが認められるのであつて、運用上論議のあるところであることが窺われる。)、右予算分割主義のため、七・一七洪水後の向中条、西名柄仮堤防の築堤工事に当り、第一審原告ら主張の如く浜砂の単一使用を余儀なくされたとか、あるいは右両地区の河川工事に支障をきたした事実を認めるべき的確な証拠は見当らないのである。

したがつて、この点に関する第一審原告らの主張も採用することができない。

なお、第一審原告らは、当審において、河川改修に関する地方交付税の割合が道路等のそれに比較して少なく、また、國の河川改修助成費は、通常は半分、災害復旧の場合にのみ七割近くになるという仕組みとなつているため平常の河川改修が等閑視され、災害待ちとなつている旨主張するが、右主張が本件の河川管理瑕疵とどのように関連するかについての具体的事実主張がなされていないから、右主張は、その当否につき判断するまでもなく、失当というほかない。

第七  損害について

以上の認定によれば、本件において河川管理瑕疵責任を負うのは八・二八水害による下高関地区右岸堤防の破堤についてのみである。

そこで、同地区の住民である第一審原告石井平治、同今井幹雄、同菅兵治の三名が被つた損害について検討するのに、当裁判所のこれに関する認定・判断は次のとおり付加、訂正するほか原判決理由欄第一〇(原判決五〇三頁一行目から同五三〇頁四行目まで)に記載のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決五一〇頁の一行目から一三行目までを「(三)そこで、以下、右第一審原告ら三名の被災の概況及び損害について調べてみるのに、〈証拠関係略〉を綜合すれば、次の(四)、(五)の各事実が認められ、右証拠中、次の認定に抵触する部分は採用せず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。」と改める。

2  同五一五頁三行目の「向つて」の次に「約」を、同四行目の「から」の次に「約」をそれぞれ加え、同五一八頁八行目の「四四円を下らない。」とあるのを「四四円となる。」と、同頁末行目から五一九頁一行目にかけて「七万円前後であつたから、右の損害額は一二万円を下らない。」とあるのを「六万円を下らなかつたから、右の損害額は一二万円となる。」とそれぞれ改める。

3  同五二九頁二行目の「(ただし、一万円未満切捨て)」とあるのを同九行目の「計算」の次に移記挿入する。

第八  結論

以上の次第であるから、第一審被告らは損害賠償として第一審原告石井平治に対しては金二五八万〇、九四四円、同今井幹雄に対しては金一四三万円、同菅兵治に対しては金一一七万八、〇〇〇円を連帯して支払うべき義務があるというべきである。ところで、右金員に対する遅延損害金については、そのうち弁護士費用相当分(第一審原告石井分二三万円、同今井分一三万円、同菅分一〇万円)は、同費用が本訴終了後に支払われる旨約されているものであるから、本判決確定の日に弁済期が到来すると解するのが相当であり、したがつて、その起算日は本判決確定の日の翌日からとすべきものである。

そこで、右第一審原告ら三名の第一審被告らに対する本訴各請求は、(一)第一審原告石井に関しては二五八万〇、九四四円及び弁護士費用相当分二三万円を除く二三五万〇、九四四円に対する本件事故の後である昭和四二年八月三〇日から、弁護士費用相当分二三万円に対する本判決確定の日の翌日から、いずれも支払済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金、(二)同今井に関しては、右と同趣旨で、一四三万円及び弁護士費用相当分一三万円を除く一三〇万円と同費用相当分に対する各前同日から同率の遅延損害金、(三)同菅に関しては、右と同趣旨で金一一七万八、〇〇〇円及び弁護士費用相当分一〇万円を除く金一〇七万八、〇〇〇円と同費用相当分に対する各前同日から同率の遅延損害金以上の各連帯支払を求める部分は正当として認容すべく、その余は失当として棄却すべきである。そうすると、右三名の第一審原告らに関する原判決を右の趣旨に従つて変更すべきである。また、右三名を除くその余の第一審原告らの各請求はいずれも理由がないから、これを棄却した原判決は相当であり、本件控訴はいずれも理由がないから棄却すべきである。

よつて、訴訟費用について民事訴訟法第九六条、第八九条、第九二条、第九三条を、仮執行の宣言につき同法第一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(渡辺忠之 鈴木重信 糟谷忠男)

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